『死亡遊戯』

●やたらとブルース・リーの特集がTVで放映されているから、ん? と思ったのだが、今年は生誕70周年であった。有名人の生誕何十周年、没何十年などという企画が毎年のように行われるが、最近はそういった企画にあまりアンテナが反応しなくなっている。そういえば60周年のときはなにかあったのだろうか?まるで記憶に無い。

●故人の偉業を振り返り、故人を思い起こすということは悪いことではないのだが、近年はそれを露骨に金儲けのビジネスに直結させた企画が多く、素直に受け容れがたい。本当に心から故人を偲ぶのではなく、故人の名声を利用して金儲けをしようという企業、それにのっかったメディア、マスコミ・・・・・。

ブルース・リー生誕70周年に関しては、NHKと民放でそれぞれ特集番組が組まれてはいたが、えげつない企画や便乗商売は殆どなかった。亡くなった人を売り物にして金儲けをするという行為は100%受け容れ難いが、守銭奴は儲かりそうなことならハイエナのごとく集まってくるもの。今回の生誕70周年で見え透いた金儲け企画が無かったことはファンとしては気持ちが穏やかなのだが、反面これはブルース・リーではもう儲けには繋がらないと見られているということなのであろう。ブルース・リーの死後37年、ブルース・リーのカッコ良さ、映画の歴史の中に刻んだ偉業は何一つ変わりないが、それが人々に及ぼす影響力は、徐々に、確実に薄らいできていると感じざるを得ない。ジョン・ウェインプレスリーになんら感じることが無い自分のように、ブルース・リーをかって存在した古い俳優としてのみ受け取る人の比率は確実に上がってきているのだろう。

●『死亡遊戯』はブルース・リーのイエローのジャージ姿が兎角印象的であり(トラック・スーツというらしいが、その語源が分からない) 死亡遊戯=黄色のトラックスーツと、もう同一のものになってしまった感じ。それほどまでに黄色いトラック・スーツを着たブルース・リーの姿は強烈な印象を観る者に残した。考えてみると衣装だけで映画を想起できるもの、衣装が映画のイメージを支配してしまっている作品は『死亡遊戯』以外に思いつかない。

●その意味では『死亡遊戯』はブルース・リーのコスプレ映画とも言えるかもしれない。

ブルース・リーの死後代役を立てて撮影し、かなり無理をして編集されたこの映画は、映画としての完成度は著しく低い。香港や中国の出来の悪いTVドラマかそれ以下と言っても過言ではあるまい。ストーリーもありきたりであるし、その上に無理をして代役の映像をつないでいるから編集も酷い。映画として褒めるところなどどこにもないようなC級以下の作品なのだが、この映画には別の価値がある。ブルース・リーを観ることができるという価値。

●映画の内容がどれほど悪くとも、質がどれほど低くとも、登場するブルース・リーの姿を観ているだけで、その姿に見とれ、見入ってしまう不思議な映画。それほどまでにブルース・リーの姿には人を引きつける魅力がある。

●1940年11月27日 - 1973年7月20日 33歳の短い命でブルース・リーは死亡。余りにも早すぎる。もし、ブルース・リーが生きていて、別な映画を作っていたら、きっと映画史に残るような素晴らしい、魅力的な映画が出来ていたに違いない。そう思ってしまう。

●33歳で死ぬなんて、死んでからこんなに伝説のような人になっても、それは悲しい。ボブ・マーリーにしろ、ジョン・レノンにしろ、30半ばや40で死んでしまったのでは、あまりに人生が短いし、悲しすぎる。有名人で短命な人は多いけれど、有名にならなくたって60とか70まで生きていた方が人生はいろんなことがあるし、楽しいんじゃないかな? 早く無くなってしまった人のことを考えると、いつもそんなことを思ってしまう。

●『死亡遊戯』は映画としては不出来極まりない。だからこれは映画として捉えるべき作品ではない。これはブルース・リーの魅力を封じ込めた最高で最後の映像作品、そう考えるべきであろう。

○2010年は黒澤明山本薩夫の二人の生誕100年の年。世界のクロサワはAK100として様々なイベントが企画されていたが、黒澤明財団による、伊万里黒澤明記念館の建設をめぐる資金不正流用で全てに難癖がつき、記念すべき黒澤明生誕100年のイベントは殆ど全てが黒い影に包まれて消沈してしまった。山本薩夫に関してはTVでの特集番組が組まれ、いくつかの小さな記念イベントが行われたようだが、世の中的には殆ど静けさを保ったまま。儲けようと企んでしくじったものと、儲け話などなにもなく、淡々と知る人ぞ知るという形で密やかだったもの、その二つと、ブルースリーの70周年、映画にまつわる3つの生誕記念には暴走して金の亡者となった資本主義拝金主義者の縮図がこんなところにも忍び込んでいるんだなと感じてしまうのだ。