『グレート・ブルー』(1988)

●青く美しい海、イルカ、海に魅せられた男たちの友情、ウイットの効いたジョーク、映像にマッチした音楽。初めてこの映画を観た1988年の夏、観客も少ない劇場で麻酔にかけられたようにボーっとなって映画に意識を全て奪われてしまった。映画に自分自身をすべて包み込まれ、吸い込まれてしまったかのような感覚。ボーっとしてエンドロールが終わって劇場が明るくなっても席を立つ気になれなかった。それが「グレート・ブルー」だった。

●深く、重く、感動した。ラストで自分の子を身ごもったジョアンナに、残酷にも、海の底へと自分を引き込むウエイトのロックを外させ、深い夜の海へと沈んでいくジャック。深い海の中で自分が愛してきたイルカに導かれるようにロープを離れて深遠な海に泳ぎ出していくジャック。

●このラストシーンに疑問を持ち、理解できないと語る人も多い。愛してくれる女性を、自分の子供を身ごもった女性を置き去りにして、どうして自ら海に去っていくの?そこにあるのは死なのに、どうして愛する女性を、愛してくれる女性を、新しく生まれる子供までも置き去りにして自ら海の中に沈んでいくの?と。

●監督であるリュック・ベッソンがどういう考えでこのラストシーンを撮ったのかは本人にしかわからないけれど、非常に意味深く、色々な解釈が出来るラストシーンだ。

●美しい海の映像に酔いしれて映画を観ていて、最後にこのラストシーンを観てしまうと「どうして? どうしてなの?」という疑問が頭の中に湧き上がる。その疑問にスパッと自分なりの解釈を当てはめることの出来る人もいれば、いつまでも「やっぱりわからない」という人もいるであろう。その曖昧さ、ある意味難解とも言えるこのラストシーンがあるからこそ「グラン・ブルー」は単なる美しい映像の海の映画にとどまることなく、ある意味哲学性を持ったカルト的人気を博する映画になったのだろう。

●ラストシーンには人それぞれに沢山の解釈が存在するはずだ。観た人の今まで送ってきた人生、恋愛経験、男性感、女性感、人間感によってあのラストシーンの解釈は如何様にでも変化するだろう。だから、私はこう思う、私はこう感じた、でいい。決定的な解釈など存在しないしそんなものは意味がない。

●ジャックにとって、何よりも愛すべき場所は海であり、エンゾという盟友が最後の言葉で「海がいい、沈めてくれ」と言ったその海なのだ。だから、ジャックは「僕にはこうするしか出来ないんだ。僕は海の中へ行くしかないんだ、僕は海なしでは生きられないんだ」と海に帰っていく。それは良い言い方をすれば物凄くピュアな心であり、ジャックの姿はあまりに幼く純真な少年のようでもある。

●山を登る男はたとえ死の危険性が高くても、たとえ家族や子供が居ても、危険を顧みず高き頂を目指す。その行為を女性は理解できない。それでも男は死の危険も家族の悲しみにも目を背け、頂を目指す。それが説明できない男の性(さが)なのだ。ラストシーンのジャックにこれと似ものを感じる。

●恋人よりも、新しく生まれてくる自分の子供よりも、友の眠る場所、愛する海に沈むことを選ぶ男。しかも自分を海深く沈めるシンカーのロックをジョアンナに外させるなんて。なんて残酷な行為なのだろう。このシーンを、こんな男性を女性は理解できるのだろうか?

●けれど、最後にジョアンナは言う「Go and see my love」と。直訳すれば、「行きなさい、行って私の愛を見てきなさい」か「行きなさい、行って見てきなさい、私の愛する人」となるが、この言葉には「あなたはただ無邪気で子供じみたことを言っているわ、いいわ、わかったわ、行きなさい、行ってしまいなさい(そして今ここにある私の愛がどれだけのものかを海の底で気が付きなさい)」と突き放した母性的なものを感じる。このラストの捉え方は人それぞれで色々変わるであろうけれど。
・「Go and see my love」と「Go and see, my love」でこの台詞の意味は大きく異なる。my loveはやはり”私の愛”ではなく”私の愛する人”ととらえるのが正しいだろう。


●女性の目から見れば、結局男はいつまでも子供であり、どうしょうもない幼さを持っている。愛している男なのに、いつまでも幼さを捨て去ろうとしない。女性はとことんまで自分の愛の強さを訴えかけるけれど、それでも男がどうしても気持ちを変えないと分かった瞬間、もう諦めて「結局、死ななければわからないのね。分かったわ、好きにしなさい。死ぬときに私の愛がどれだけ強くて、大切なものだったかを知るはずよ」と突き放す。

●これは山に向かう男を送り出すときの女性の気持ちに等しいだろう。

●「グレート・ブルー」という映画は非常に男っぽい映画であり、男の友情とか、情熱とかいう物を描いた映画だ。だが、この映画を好きだという女性が非常に多い。映像が美しいからというだけでなくストーリーにも感動したと言っている。最初の頃は「どうしてだろう? こんな男男した映画をなぜ女性が好きだというのだろう?女性が理解できるんだろうか?」と思っていたのだが、繰り返し繰り返し観ていると、結局のところ、この映画は幼くて、おバカで、いつまでたっても大人になりきれない男を、大きな母性愛で「本当に男ってどうしょうもないわね」と見つめている映画なのかもしれないなと思えてきた。女性がこの映画を好きだといったりするのはそんなところに理由があるのかもしれない。

●「グレート・ブルー」は思い出の一作であり、常にマイ・ベスト10に入る映画でもある。毎年夏になるとこの映画を観ていた1988年のあの暑い夏を思い出す。

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◎今でもよく覚えている。1988年、真夏の朝、ギュウギュウ詰め電車から抜け出して田町の駅(今と違って物凄くボロい駅だった。屋根なんか崩れ落ちそうだったし)の階段を上り改札ホームへ出た。汗ばんだ人混みからようやく脱出してホッとした気持ちで階段脇の壁を見ると、階段脇の目立たない場所にある青いポスターが目についた。真っ青な海の中で手を上げる人の姿、そしてその上を飛ぶ一匹のイルカ。映画のポスターだった。タイトルは『グレート・ブルー』と書いてあった。

◎その映画に関して何の情報も持っていなかった自分は「こんな映画が公開されるんだ。全然知らなかったなぁ」とポスターに近づいた。ポスターのイルカの上の方にこんなコピーが書いてあった。
「海にはまだ我々の知らない秘密がある」(確かこうだと思う)
なんだか「未知との遭遇」のコピーのコピーみたいだな、と思ったけれど、そのポスターの美しさ、そしてそのコピーの神秘さに何かピンときて魅かれるものがあった。

◎どんな映画なんだろう? その頃はインターネットも身近じゃなくて、知りたい情報があれば直ぐにネットにアクセスするという状況もなかった。お昼にコンビニに行ってぴあを立ち読みして情報を探した。この映画を解説するようなページはどこにもなくて公開情報のところに短い説明文がちょっと付いているだけだった。それでも有楽町で上映されていることは分かった。何の前知識もないのに、不思議な位その映画が気になって、その日の夕方、最終回の上映に急いで駆けつけて「グレート・ブルー」を観た。

◎長年映画を観てきているけれど、あの時のように何の予備知識もないのに、たった一枚のポスターで心を魅かれ、映画館に観に行ったというのは「グレート・ブルー」が初めてだった。

◎殆ど予備知識無く観た映画が非常に素晴らしかった場合、その感動は何倍にも高まる。映像の美しさと海を愛する男達の物語にブルブルと震えるほどの興奮し、感動した。帰りの電車の中でパンフレットを何度も読み返した。

◎翌日は会う人と話をするたびに「グレート・ブルー」が凄い、良い映画だ、感動した。絶対見に行くべきだと吹聴した。だけど殆どの人から「何その映画、全然知らない? そんなに良いの? 全然宣伝もされてないじゃない。ダイビングの映画? ホントにそんなにいいの?」なんて声しか返ってこなかった。

◎興奮冷めやらぬ自分は、次の日も二日続けで同じ映画館に「グレート・ブルー」を見に行った。そして感動と興奮は2倍にも3倍にもなった。

◎映画というのは観て感動したら、その感動を誰かと分かち合いたい、語りたいと思うものだ。思いを共有できる語りが映画の感動をより大きくする。(もちろん否定的会話になることだってある)とにかく映画は観終えた後の感動を共有できればより素晴らしい体験となる。しかし、1988年当時自分の周りに「グレート・ブルー」を観たという人は信じられないことだが一人も居なかった。映画ファンは周りにもかなり居たのに、誰一人として「グレート・ブルー」を観ていなかった。「観るべきだよこれは!絶対にイイから!」と周りに勧めてたけれど、「観に行ったよ」という人はいなかった。話題にもならず宣伝もほとんど行われず、映画評にすら引っかかっていない作品だったので知人も敢て観に行こうという気持ちにならなかったのかもしれない。それは当然のことであろう。

そして気が付けばなんと翌週には有楽町での上映が打ち切られていた!これには正直かなり驚いた。さんざん周りに勧めたのに、映画が上映が終わってしまったのだから。
(ネットで調べてみたら、日劇プラザは2週間で新宿プラザ劇場は1週間で打ち切りだったということである)

◎だから、この映画はリアルタイムで劇場で観て、それを語り合うという経験が殆ど出来なかった稀有な作品でもあったのだ。それにしても日劇プラザで2週間、新宿プラザはたった一週間って、どれだけ人が入らなかったのだろう、というかまったく入っていないという状況だったのだろう。自分の記憶でも夕方の銀座のOL達が帰る時間帯の上映だというのに全く混んでいなかったとイメージ残っている。

◎それほどまでに大コケ興行だった「グレート・ブルー」だが、自分の中ではこの年のベスト1作品だった。翌年レンタル・ビデオがリリースされ、LDが発売になり何度もこの映画を見返して、やっぱりこの作品は素晴らしいと見返す度に思ったものだ。繰り返し観ている回数としては「ライト・スタッフ」に次いで「グレート・ブルー」は多いかもしれない。それでもレンタル・ビデオがリリースされた頃ではまだ「グレート・ブルー」を知る人は少なかった。

◎あれはいつだっただろう? たぶん環八を走っている時だったと思う。車を運転しながらFM局を変えたら、偶然に聞き覚えのある曲が流れてきた。「グレート・ブルー」のラストで流れるエリック・セラの歌だった。「珍しいなぁ」と思っていたら女性アナウンサーが「本当にいい映画です、大好きですこれ!」と喋っていた。その頃からだろ、やたらと芸能人やらレポーターなどが「好きな映画は?」とき聞かれ「グレート・ブルーです」と言いだしたのは。

・TVのお笑い番組や深夜番組などでも映画の話題となると皆こぞって「グレート・ブルーが好きです」と言っていた。まるで「グレート・ブルー」を知っていてそれを好きということがファッションの一部であるかのごとく、「グレート・ブルー」を観ていてそれを好きだということが、最先端のおしゃれ感覚を自分が持っていることの証明であるかのごとく、そこらじゅうで「グレート・ブルーが好き」という言葉が聞こえ出した。TVでも雑誌でも、急速な流行りという感じであった。

◎劇場公開時にはまるで無視されたに近い作品がビデオ化されたことでこんなにも人気に火が付くなんて、とても驚くと同時に不思議な感覚であった。フランスでの超ロングラン・ヒットの状況を引っ張ってきて伝えたメディアの影響も大きいだろうけれど、その当時レンタル・ビデオでこの作品を観た人の多くがこの作品に感動したことは間違いない。劇場公開から二年近く経過してようやく知人とこの映画の良さを語り合える状況になった。「あの時観ろって言ってただろう」そう言うと「そんなこと言ってたっけ? 全然記憶にないよ」なんてことを言われたものだ。

・そういえば日石のレーサー100のCMでエンゾとロベルトが車に乗っているシーンをパロったものもあった。

◎こうして一気にその知名度と人気を急上昇させた「グレート・ブルー」だが、その当時から本国フランスで公開されているものはもっとずっと長い版があり、日本で観ることの出来る「グレート・ブルー」はオリジナルをかなり編集してカットしたものだという話が伝わっていた。そのフランス版というのを観てみたいという気持ちも確かにあったけれど、自分はこの「グレート・ブルー」が好きだったしこの作品に非常に感動し満足していた。フランス版「グラン・ブルー」もいつか観てみたいと思っていたけれど、あの有楽町に二日続けて観に行って震える位感動した「グラン・ブルー」こそが自分にとってこの映画の原体験であり、オリジナルだという思いがある。

◎自分の懐古話になってしまっているが、自分にとって「グレート・ブルー」は素晴らしい感動を受けた一つの作品として完成されたイメージになっている。監督であるリュック・ベッソンが本来意図したものではない編集とカットが行われているとしても、あの1988年の有楽町で観た「グレート・ブルー」は「グラン・ブルー」の数あるバージョンの中でも、破綻もなく、美しく、面白く、映画作品として完済されたNO.1のものだ。

◎一時期の流行りとなった、劇場公開版、ディレクターズ・カット版などという複数バージョンの作品リリースはハリウッドのスクルージドが一つの映画作品で何回も金儲け、金回収をしようと企てた策略だ。もちろん製作者である監督が自分の意図する編集を行った、自分がファイナルカットした作品こそを本当の作品だということは正しい。ただし、その裏には、監督らの考えを巧みに利用して金儲けに利用しようとしたハリウッド・スクルージドの腹黒い魂胆が横たわっていることも事実だ。

◎だから自分はディレクターズ・カットだとかオリジナル・バージョンだとか名前が付いたものを盲目的に劇場公開版よりもすぐれたものだとか、より監督の考えに沿ったものだとかと手放しに認める気はない。

◎ほんの少しの映像の入れ替えで、登場人物の感情は180度違ったものに変えることが出来る。映像編集とはそういうものだ。「グレート・ブルー」が2時間という時間枠の制限で編集カットされたため、リック・ベッソンが本来意図したものとは違った演出効果になってしまっている部分があるだろうことは認める。

◎1988年に劇場公開され、翌年にビデオ化された「グレート・ブルー」はきっちりと二時間枠の中で完了し、目に付くような破綻などなく、美しく感動的な作品である。多くの人の心を魅了し、感動させ、日本でブームとまでなり、沢山の「グレート・ブルー」ファンを生みだした。しかし、1992年に「グレート・ブルー」に48分の未公開映像を付け足した「グラン・ブルー」が公開されると、いかにも典型的な日本人の行動とも思える全員右倣え、全員横並びと言う感じで「グレート・ブルー」は不完全なバージョンであり、本来監督が意図した作品じゃない。本物は「グラン・ブルー」なんだ!となった。

◎あきれるほど単純で愚かしいこの全体主義にも似た動き。なんでこうなるんだろう、これだから日本はダメなんだよなんて口から思わず出てしまいそうになる。おぞましい手のひら返し。しかも誰もそれに非を唱えることもない。「グレート・ブルー」は完全に「グラン・ブルー」に置き換わってしまった。

◎「グラン・ブルー」を「"完全版"はいい」「"完全版"は素晴らしい」なんて言っている人は本当に映画そのものを観ているのだろうか?と疑問に思う。「長いほうが本物なんだ、立派なんだ、正しいんだ」という教条主義的な思考にあなたたちの頭は塗り固められているのではないか?

◎48分もの未公開映像を加えた「グラン・ブルー/完全版」(日本表記)は無駄なシーンが多く、エピソードが整理されていない。冗長たる映画になってしまっている。これが完全版だと言えるのか?手元に残っていた映像をべたべたと貼り付けたようなあの「グラン・ブルー」が映画として「グレート・ブルー」よりクオリティー高いと言えるのか?

◎完全版と名前が付けられたから、作品の中身を自分の目で判断せず「これが完全版なんでしょ」と盲信している人が多すぎるのではないか?

◎「グラン・ブルー/完全版」などという名称は日本独自のものであり、フランス本国でさえもグラン・ブルーに”完全”Perfectionという名称を付したものはない。 

◎1992年に公開された「グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版」の原題は『Le Grand Bleu/VERSION LONGUE』であり、どこにも"完全版”などという文字はない。本来は「グラン・ブルー/ロングバージョン」または「グラン・ブルー/長尺版」と日本では表記されるべきだった。それが日本ではあろうことか"完全版”と名付けられ、多くの人が、長尺版を完全版だという認識で今に至っている。・・・・・愚かなことだ。バカバカしい。

◎作られ、与えられた情報を疑問も持たず受け入れ、称賛している。

この点に関しては次の『グラン・ブルー』で書くとしよう。

☆残念ながら今この「グレート・ブルー」は2003年に発売された「グラン・ブルー アルティメット・エディション」DVDの特典ディスクでしか観ることが出来ない。しかも4×3スタンダードサイズをトリミングしてワイドスクリーン版にしたものであり、映像も今となっては御世辞にも美しいとは言い難いものだ。

☆もともと登場人物には英語で台詞を語らせていたので台詞は英語バージョンの方がしっくりとくる。「グラン・ブルー」のフランス語台詞はリップシンクがずれていて、観ていて違和感があるのだ。

●1988年日石レーサー100CMグレート・ブルーバージョン??
http://www.youtube.com/watch?v=_F7rsPqoMZk

2011-07-20 『グラン・ブルー/デジタル・レストア・バージョン』これは別の海だ

2010-07-05 『グレート・ブルー』 数あるバージョンの中でこれがベストだ。

2010-07-06 『グラン・ブルー/グレート・ブルー完全版』これは完全版ではない!

2010-07-07 『グラン・ブルー/オリジナル・バージョン』

2010-07-08 『THE BIG BLUE』思わずのけ反る程の改悪作品。

2010-07-09 『グラン・ブルーその後、夏の海、思い出』