『沙耶のいる透視図』(1984)

●なんとなく感じる・・・この映画の原作は、「限りなく透明に近いブルー」のニュアンスを模倣して書かれた小説なのではないかと。二番煎じ作品なんじゃないかと。

●原作を読んでいないのにあれこれいうのはあまり良くないとは思うが、この作品を見ていて感じたのは、1982年第六回すばる文学賞受賞の原作自体が、1976年、群像新人文学賞、その年の芥川龍之介賞を受賞した。「限りなく透明に近いブルー」を参考にして、こういった作品を書けば注目されるし、受賞の可能性があるんじゃないか? そんな皮算用で書かれたのではないか? ということだった。

●なにか昔から文学賞がセンセーショナル題材、性的で今まで表にあまりでなかったような表現をしたものをやたらと持ち上げて、それをこれまでにない文学だ、新しい感性の登場だなどと言って賞を授与するという傾向が数年単位であるような気がする。自分としてはそういった新人賞の授与を聞くと「またか」という気になる。文学賞なんて話題にもならないし、文芸誌なんて全然売れない。だから定期的にセンセーショナルな話題を取り扱った物に賞を授け、文学賞がわすれされれることのないようにしているかのように思えるのだ。性だとか暴力だとかで人目を引くような作品が本当に文学的な価値があるのか? 新人文学賞を与えるに値する文学作品なのか? いつもそう思う。だれしもが興味はあるが、表面に出すことを憚られるようなことを描くことにより下品な好奇心を刺激することによって話題を集める。そんな魂胆が鼻の奥まで臭うのだ。

太陽の季節」の障子破り。「限りなく透明に近いブルー」のドラッグやセックス。「ベッドタイムアイズ」の黒人とのセックス描写、「蛇にピアス」の自傷とセックス。文学賞は定期的に過激な性描写を描いたような作品に新人賞を与えている。それは本当に文学的な視点からの賞の授与なのか? いつも思う。文学賞が性的な題材を扱った作品を新人賞にするとマスコミも話題としてこぞって取り上げる。なんだかそれをあざとく狙って賞をあげているのではないか? いつもそう思ってしまう。文学賞を主催する側のビジネス的打算が裏にちらちらとしているようで、どうもそういった性的なことを取り上げた作品が新人賞を受賞、芥川賞を受賞などと聞くと、うがった目で見てしまう。またそんなことやってるのか? いつものパターンだな。まったくどうしょうもないと。「沙耶のいる透視図」にしてもその流れの中にある新人賞受賞作品だろうと思い、本を手に取ることもなかったのだが。

●ある種隠された性表現の世界というのはいままでもあったのだ。団鬼六だとか、あまり表にでないながらもがんとして存在していた。官能小説、SM小説、エロ小説もそう。それらの性表現を借りて日常生活のストーリーの中に織り交ぜれば、センセーショナルな文学? 作品は意図もたやすく出来るではないか? そんなふうにさえ思っていた。

●この映画を観ていたら、原作小説も人目をひくような、特殊な、性的なパーツを組み合わせることで注目をあつめようとした、そんな魂胆がにじんでいる様な気がした。前述の小説と似たりよったりで。

●映画も当時まだ19歳の若くて美形の新人が裸になり、そこに不感症や強姦的セックスといった特殊な情景を描くことでスケベな好奇心を刺激するような、いかにも狙った作りというあざとらしさが鼻に付く。そして近親相姦、自分の性器を熱湯で焼くなどというこれもまた奇異、奇行、スケベ心に興味はありながらも表立ってそれを観たり語ったりすることをはばかられるような設定でもって普段は隠している下世話な好奇心を刺激するような内容。

●結局はそういったところで引っかけて話題になった作品なんじゃないかと思う。

●不感症な美女、その親愛を得るために自分の性器を焼きケロイド状にし不能とする行為・・・特殊ではあるが、そこに共感も納得もまったく出来ない、起きない。

●土屋正巳演じる神崎が沙耶への愛を証明するため自分の性器を熱湯で焼くシーンは、ショッキングなようでありつつ映像はなんだか滑稽。

●神崎の部屋で倒れている沙耶、その近くにはグニョグニョと動くバイブレータが転がり、愛するあまりに自分自信を性的不能にした神崎が、愛するが余りの性的欲望を叶えるため、不感症の沙耶にバイブレータを使い気絶させる。その場にあらわれた橋口、気味悪く動くバイブレータと倒れている沙耶・・・・このシーンは結構エグイものがある。そして窓の外を落ちていく神崎。なんとなく話の結末はきちんと整えられたかのようでもあるが、なんだかこの最後はズンと考え込まされるというよりも、へっ?っと笑ってしまう終わりかたであった。

●今から26年前、当時においてこの映画は非道徳的であり、表に出さざる忌避すべき内容であったのか? 映画完成から3年近く上映することができず、ようやく池袋文芸座にて公開が決まったという。
その後は横浜映画祭などで賞をとったりしたようだが、やはりこれは作品としての内容の深さ、完成度などというものではなく、下半身に付随するエロ好奇心で人目を引いた作品だと自分は思う。

●ポルノから上がってきた監督、和泉聖治は一般作デビューの「オン・ザ・ロード」は良い感じだと思うのだが、この作品辺りではなにかちょっと気張りすぎ。今までの一般映画にないものを撮るんだというようなあまりに尖った勢いが空回りしてしまっている感じだ。今までにないものを!なんて気負いすぎるとただ単に奇異をてらった妙な作品になる。奇抜さだけを張り合わせても変な作品にしかならない。妙な格好をして町中を歩いている人に注目は集まるが、誰もその人と関わろうとしない。結局はその人の自己満足だけの世界に行き着く。この映画もそんな感じがする。