『太陽の季節』(1956)

●丁度夏だし、逗子葉山の海での暴走した青春を描いた映画(小説)ということで果たしてどんなものなのかね?と思って観てみたがこれは酷い内容だった。

石原慎太郎が書いた小説が社会的にも話題、問題になり芥川賞まで取ったということは知ってはいたが、小説は読んでいないけれどこの映画はもうあまりに退屈で遥か過去の遺物のようである。黒澤や小津の作品が今にも通じる普遍性をもっていいるのだけれど、この「太陽の季節」は今から見たら馬鹿みたいな映画である。それでも当時、今から半世紀も前はこういう作品にも熱狂する人がいたのだろうし、これが青春の一ページとして思い出になっているひともいるであろう。しかし・・・なんじゃこりゃという気持ち・・・映画としての出来が非常に悪いとしか言いようが無い。

●この映画の主人公らの拳闘部の連中はみな学生という設定なのだろうが、だれも学生に見えない。この当時そういう服装だったのかどうかはわからないが、背広(スーツ)を着てネクタイして合宿に行って、帰ってきたら料亭みたいなところに入ってビールを飲む・・・登場人物がまるで30位のサラリーマンにしか見えないのである。たぶん今のテレビなどでもう年老いたときの顔しか見ていないからオヤジっぽくみえてしまう部分もあるのかもしれないが、ヨットに乗っている姿も、クラブで喧嘩するすがたも全部とてもじゃないけど大学生には見えない。たまに学生服を着ているシーンがあるが、この学生服姿がまた全然しっくりこない。「これは監督が人気役者を無理してキャスティングしてるから役年齢よりもかなり実年齢の高い役者を使ってるんじゃないか」と思ってしまった。見終わって当時の年齢を調べてみたら長門裕之(24歳)南田洋子(23歳)佐野浅夫(31歳)石原裕次郎(22歳)と、そんなに大学生という設定から遠いわけではない。でもなんなんだろう、このオヤジっぽさは。とても自由な大学生の青春を描いた映画とは思えなかった。というか見ていて笑いが込み上げてきてしまうほどである。あまりのサラリーマンっぽさに。

●半世紀前の作品だからと言ってしまえばそれまでだが、明らかにこの映画感覚が変だ。当時はこれでまともだったのだろうか? 不思議である。

●90分程の映画だが、ぶつぶつとつながりの悪い展開だし、主人公の感情表現も単に直情てきなだけ。南田洋子はきちんと演技してるとは思えたが、その他はまるで大根である。

●逗子の海岸や当時の葉山、あぶずりの港の様子などを見るのは面白いけれど、それ以外には今となっては見る価値はもう殆ど無しであろう。

●逗子の海岸線は今と殆ど変わらず、あぶずりの港あたりで海水浴をする姿が面白い。あそこの中にも砂浜があって泳いでいたとは。堤防も今よりずっと高い。

●こういう映画もあったのだという記録としては残るであろうけれど、それだけであろう。原作も読んでみようかと思ったが・・・読まなくてもいいかもこれ。

●逗子の海岸には「太陽の季節ここに始まる」という文学記念碑が建っているのだが・・・発表当時どれだけ騒がれたのか知らないが、この記念碑少し恥知らずって気がするのだけれど。

追記:まあせっかくだからと原作小説も読んでみた。2002年幻冬舎から再発された短編集「太陽の季節」(幻冬舎ってのがいかにもだねぇ)
最初の10ページ位までは「あれ、思ったよりちゃんとした小説じゃないの?古さは感じるがきちんと書いてるようだし」なんて思ったのだが、それ以降、英子が出てきて女関係の話になってくると、もうなんだこれは書き殴ってるかのような筆致。勢いはあるけれど、今読むとなんだとも駅売りの安っぽい官能小説でも読んでいるかのような文と内容であった。有名な自分のイチモツで障子を破るというシーンも呆れた。(映画の中ではこのシーンは直接的には描かれていない)半世紀前に学生が書いた小説。それが当時としては大変な話題になったということなのだが現在に通じる普遍性はあるとは思えない。突出した若者の行動、吐き出した言葉、それが文学とは到底思えない。まあそんなところか。この小説にして文学記念碑なんて、政治的な裏取引で出来た恥ずかしき石の置物としか思えないのだが。
小説を読んだら、映画は小説よりももっと出来が悪かったなと改めて思った次第である。