『空気人形』

●養育放棄の問題、時代劇、家族と来て是枝監督が今度はどんな映画を撮るのだろうと思っていたら、まさかこんな内容の作品を撮るとは、またしても驚きである。

●作品毎に作風、素材が激しく異なるのが凄い。映画という表現手段で取り扱う素材が毎回非常に異なるというだけであり、根っこの部分で“作品に流れる血”は同じかもしれないが。

●家族、親兄弟、その軋みと愛情、人間の隠れた本性、そういったものを笑いのなかに面白可笑しく、時に肌寒さを感じさせるほどに描き、それでも温かさが感じられた「歩いても 歩いても」は素晴らしい作品であった。そんな作品の次(実際には次の次だが)に監督が作った映画がいわゆるダッチワイフをまん中に持ってきた作品だと聞いて、うーんと唸った。まさかそれほどまでに振り幅を大きくするのかと戸惑った。

●監督は都会の孤独を描いた作品だと言っている。確かに、これは哀しく切ない映画だ。都会の孤独というよりも、人間の孤独さ、空虚さ、はかなさ・・・そういったものがじわじわと伝わってくる。

●好きな人の前で、空気が抜けてしまった自分の体を「見ないで」と空気人形は言い、男は空気人形に自分の息を吹き込むことで蘇生させる。これがエロスだとされているが、自分がこのシーンを観ていて感じたのはエロスではなく、哀しさだった。空っぽの体で恋をし、好きな男から息を吹き込んでもらい蘇生する、空っぽの体に空っぽの無色透明な空気が吹き込まれ、形は元に戻る、空っぽどうしで満たしあっているのだと・・・・。

●ファンタジーでありながら、敢えて美しく夢物語的なファンタジーにすることなく、驚くほどの毒気を散りばめている。ダッチワイフとしての空気人形とセックスをする男。射精が終わってから空気人形のゴムで出来た膣の部分を取り外し、中に出した精子を水で洗う。こんなぎょっとするようなエグさまで映像にしている。まるで「お伽噺をやってるんじゃないんだよ」とでも言わんがばかりにこんな観ていて眉を顰めてしまうようなシーンが出てくるとは。そしてさらにそれはきつさを増し、空気人形が好きになった男とセックスをした後、自分の膣の部分を自分で取り外し、自分でそれを洗う。デートでこの映画を選んでしまったら、このシーンには眉を顰めてしまうだろう。男も女も気まずい雰囲気が漂ってしまうだろう。だが、そんなことはお構いなしとでもいうように観ている者を突き放す。ゴムの性器を空気人形が洗うシーンは、最初映像としてのエグさを感じた。なぜ敢えてこんなシーンを作品の中に組み込んだのかと考えた。この映画の中では愛の営みであるセックスすらも、ゴムの代用品で賄える一時の快楽。虚しさ、寂しさに包み込まれている。人は、人の感情を持ってしまった空気人形は、恋もセックスもなにもかも、空虚さの上に乗ったもの、根本にあるのは虚しさ、空虚さ、哀しさ、人はそれを布で覆い隠して見えない感じないように自己をごまかして生きているということか? 人間の虚しさ、哀しさ、この映画が伝えたいのはそのことなのだろうか? 

●「僕も同じだよ」そう語った好きな男とセックスをし、その男の腹をハサミで切り、血にまみれ、テープで塞ごうとする空気人形の姿。男に自分がしてもらったように空気を吹き込もうとする姿。痛ましい程に哀しいシーン。

●都会の人間の孤独を描いたと監督は言っている、だがこれは都会に限らない、人間の孤独、哀しさだ。そういった人間の哀しさをたっぷりと感じさせながらも、でもなんとか生きていかなきゃならないんだ、そんな包み込むような眼差しも映画を、映画を観る人を包み込んでいる。

●哀しくも美しい映像、ぺ・ドゥナのたどたどしい言葉、驚いた顔、喜んだ顔、全てに寂しさと哀しさがきっちりと浮かんでいる。

●芝浦か京急沿線の運河沿いで撮影されたのだろうか? マンションを見上げるような公園。マジックアワーをつかったかのような美しい光線。芝生の緑も、湿り気を帯びた空気も朝の光の中で美しく輝いている。映像の美しさも目を見張る。テレンス・マリックの映像を彷彿させる。

●美しく、哀しく、温かい映画・・・・セリフで多くを語らず説明もせず、シーンとシーンを結び付け、シーンの意味を自分なりに考え、観た人一人ひとりが自分なりの捉え方、感じ方、受け取り方をし、一人一人が映画から送られてくるメッセージを自分で考えるような映画。非常に文学的な趣がある。

●朝日の中、ゴミ捨て場に倒れた空気人形とその周りに並べられた瓶や缶・・・「綺麗・・・」と言って締めくくるラストシーン。見事だ。

●もう少し時をおいたらまた観てみたい。

●この作品は是非観てみたいと思っていたが、公開劇場も限られていたこともあり(行く気になればどこでも行って観ればいいのだが)観に行こうと思っている間に公開終了となってしまった。だが、なんとはなしに作品のあらすじを聞くと、この映画は映画館で観るよりも、却って家で、TVで観る方が映画の雰囲気に合っているのではないかと思えて来たそんなこともあり、二番館を追いかけることもせず、非常に珍しいことだが、この映画はレンタル・リリースまで待った。買うのとも違う、この映画はレンタル屋で借りて観たほうが大きな小屋、大きなスクリーン、周りに人が居る劇場で観るよりも良いはずだ。そんな風に感じていた。そして待った。レンタル・リリースを心待ちにするなんてことはもう10数年なかったことだ。黙っていてもサンプルは届くし、主要な作品は劇場で観ているのだから。敢えてこの作品をレンタルで観たい、観るというのはひとつの儀式のようなものかもしれない。
そして思った。この作品の観賞はこれで良かったのではないだろうかと。作品の持つ空気感、温度、風合い、そして含まれた毒、そういったものを感じるには周りに人のいる、大きな劇場ではないほうがいい。最近では家庭のTV環境も大型化していることだし、きれいなTVでじっくりとしっかりとこの映画を観る。きっと映画館で感じるよりも多くのことを感じられるのではと思う。まあ映画を劇場ではなくTVで観た方が良いという言い方もなんなのだが、昔と違い現在のような視聴環境が遙かによい状況でなら、作品によってはホームシアター環境で観た方が良いと思われるものもある。小ぶりでしっとりとした作品は特にそうだ。派手なアクション、SF、エンタメ系の作品は劇場が良いことは確かだろうが。

●是枝監督作品は「誰も知らない」を観てから非常に注目するようになった。その後の「花よりもなほ」「歩いても 歩いても」と作品はどれも粒揃いの良作ばかりである。ベースに流れる文学的な詩情もいい。いつのまにか心にじわりと染み込んでいるような味のある作品ばかり。毎回取り上げる題材がそれぞれ全く異なるというのも珍しい。大体にして人は自分の持ち歌というか、得意とするパターンというものを持っていて、そこに寄り掛かって何かを表現してしまいがちだが、映画監督の場合も然り。同じ監督の作品を何本か観ていると「前の映画でも似たようなシーンがあったな、同じような演出、展開だな。似たような絵の切り方だな、似たような映像だな」とその監督のパターンというか癖が目に付いてくる。酷い場合は鼻についてくる。何気なく、なんとはないようなシーンに、監督自身も意識していないようなところの似通ったシーンや演出が出てくるようになると「パターンに陥いっちゃってるな、繰り返し使いすぎだなこれは」と感じるようになり、煮詰まってるか、発想の広がりが無くなってきているのかと監督の技量に疑念を抱いてしまうようになる。これは敢えて故意に同じパターンを組み込むというのとは別である。無尽蔵と言えるほど多くの想像力の引き出しがあれば良いのだが、そんな希有の能力、才能を持った人は稀であり、多くの場合こういうことになるのは人間として仕方ない部分もあるであろうが。

「誰も知らない」以降の4作品を観て思うことだが、是枝監督の作品にはパターンに陥っているところがまるで見当たらない。一つ一つの作品が個として独立し全く別個の映像作品としてスクッと自立している。台詞で説明することなく、映像で感じさせ伝えるという巧みさは共通している。それは非常に文学的な趣向に似ている。小津安二郎に近いものだとも言える。まだ劇場公開作としては9作品しか撮っていないが、この監督の想像力、発想力の引き出しには今まで見たことのないアイディアや映像がまだまだたくさん入っていそうである。今後もこの監督はあちこちに尖らせたアンテナで様々な題材を映画にしてくれるだろう。その度に驚きをもって。


4月8日に韓国でも封切・・・・韓国ではどう評されているのだろう?