『チェンジリング』

●最近のクリント・イーストウッド監督作品ではこの『チェンジリング』だけが未見だった。2008年に公開されたこの作品だけをなぜ観ていなかったのか、たしか「クリント・イーストウッドが監督を依頼され・・・・云々」という何かの記事を読み、クリント・イーストウッドが自発的に作ろうとした作品ではないのか、クリント・イーストウッドが雇われ監督もやるのか。そんな印象を持ち気持ちが引いていたのかもしれない。作品の内容も今までの監督作品とは若干異なるテイストを感じたこともあり鑑賞することのないまま時間が過ぎていた。

インビクタスという素晴らしい作品を観たことが、たった一つ未見であった「チェンジリング」をようやくに観ようという動機に繋がった。

●この作品はクリント・イーストウッド監督作品の中では、その並びの中に角を揃えてはいない作品だ。作品の社会性、アメリカという国、その社会への批判、そういったものは他の作品と同じく内包しているが、他の作品に感じられたような痛烈な刃とは異なる。胸ぐらを掴んでぐいぐいと強く押し付けてくるようなものではなく、「こういったことがあったのだ、こういう事実があったのだ」と、静かに声を荒立てることもせず、哀しみの真綿の中に観ているものを包み込んでしまうかのように伝えてきている。

●これはきっと、ロン・ハワードらにこの作品の監督を持ちかけられたとき、クリント・イーストウッドが心に決めたスタンスなのであろう。自らが企画した作品を自らが監督するのとは違う。この作品の本質を観客に伝えるにはどうすべきか、それは自分の監督としての個性をこの作品の中に浮かび上がらせるのではなく、この作品の持つテイスト、ニュアンス、時代の雰囲気を自分なりに脚色演出するのではなく、作品の本質に忠実に映画化することだ、そう考えたのではなかろうか。

●この作品は今までのクリント・イーストウッド作品とは別種のような仕上がりではあるが、流石はクリント・イーストウッド。自分の色を抑えた上で尚、非常に格調の高い一本の映画として完成させている。淡々としつつも骨太なストーリー、脚本の良さは言うまでもないが、この昨日は映像としての美しさ、撮影の見事さが際立つ。1920年代のLAの雰囲気、建物、車、衣装、風俗、男性、女性の顔貌、どれだけこだわってこれだけの映像を組み上げたのだろうと画面に見て取れる。それはまるで『ゴッドファーザー』を彷彿させる絵だ、いやそれ以上かもしれない。

●この時代の女性のイメージを持っているということで主役にアンジェリーナ・ジョリーが起用されたというが正にそのキャスティングは的を射たものであった。いやそれだけではない、ジェフリー・ドノヴァン (ジョーンズ警部)、コルム・フィオール (デイヴィス警察本部長)、ジョン・マルコヴィッチ (ブリーグレブ牧師)、ジェイソン・バトラー (連続誘拐殺人犯)、子供たち、登場人物全てが顔つきやその人の醸し出す雰囲気でこの時代の匂いや空気感までも漂わせてくるような見事なキャスティングが行われている。セット、小道具、大道具、衣装、言葉遣い、画面に映るありとあらゆるものに、1920年代のNYを感じさせる徹底した作り込みだ。

●中でも十三階段の前で、連続誘拐殺人犯に絞首刑の即時執行を宣告する老人の役が印象的。この役者はなんというのだろう、他の作品でもなんどか脇役で見ているのだが名前がわからない。剛直で意志を曲げぬ、ある意味決められたことを決められた通りにやる役人、それも冷徹に実行する役人、そんなイメージがこの役者の顔にまざまざと浮かび上がっている。

●この役者のシーンでもそうだが、映画の中で光の当て方も意図的でありながら、自然であり効果的。顔半分にだけ光を当て、顔半分を影に沈ませるシーンは何度か出てきた。コッポラなどが良く使っていた光による心理表現はこの映画の中で実に巧妙に使われている。逆光の利用、セピアな色のトーン、少し退色したグレーの霧につつまれたかのような画面。映画美術、撮影美術、芸術という点でもこの作品は息を飲むほどに素晴らしい。

●「俺は十三階段を全部踏んでいないぞ」首に縄をかけられる前に連続誘拐殺人犯が叫ぶ言葉も印象的。

クリント・イーストウッドは監督を依頼された作品であっても、雇われの監督としての仕事としてもこれだけクオリティーの高い作品を撮り上げた。それはストーリーがいい、脚本がいい、原作がいいなどという説明を一切省き、クリント・イーストウッドの監督としての技量を否応なしに万人に認めさせるものとなったであろう。

●今までの作品と若干色彩の並びが違えど、この「チェンジリング」は映画として、映画技術として映画芸術として非常に高水準のものであることは間違いない。

●かってのロス市警の腐敗は相当な酷さであったのだろう。似たような警察の腐敗はLAコンフィデンシャルなどアメリカの多くの作品で題材として取り上げられている。果たしてそれは日本ではどうなのだろう。検索エンジンで「冤罪、腐敗、警察」などの言葉で検索すればかって日本の警察組織が行った冤罪事件、偽装事件、警察組織の腐敗等電波メディアや新聞では覆い隠されている国家権力の横暴、腐敗が山のように出てくる。日本の警察もLAPDに劣らず腐敗は極めていた。そしてそれを日本で映画化することは・・・配給、出資者、広告、宣伝、劇場・・・そして権力がわからの圧力によって・・・難しいのだろう。

●今この時代でも政治家や警察の権力組織の腐敗は深く濃く、巧妙に隠されつつ広くカビの菌糸のようにこの国中に蔓延っている。資本主義が暴走し、人の命よりも金儲けを優先するようになった国アメリカ、そして日本。アメリカはその最大輸出産業である映画という世界で、自国を非難、告発する作品を作り、それを海外に配給することができる自由がある。それに引換え日本は・・・権力に対する抵抗は見えないように、知られないように巧妙に抹消される。

●映画というメディアで権力を批判、告発することは・・・・ほとんど出来ない。そういった映画は、出資の側からも配給の側からも避けられ、公開はおぼつかない。差し障りの無いエンターテイメントしか作れない、公開されない、それが今の日本の映画界とそれを取り巻く業界の実態でもあろう。

追記:ネットで冤罪や腐敗のことを検索していたところ「ポチの告白」(2006)高橋玄監督http://www.grandcafepictures.com/pochi/という作品があることを知った。3時間超の長さと内容のこともあり公開劇場も非常に限られたところばかりであったようだが、近々に観てみたいと思う。