『グラン・トリノ』

●映画のエンドロールが終わっても、暫く席を立てなかった。茫然自失。言葉を失った。沢山水を含んだ綿布団を頭の上からドスンと被せられたかのごとく、体が重くなり動くことが出来なかった。

アメリカの魂を託すのはもうアメリカ人である必要などは無いということか。熟年となったクリント・イーストウッドの打ち出すメッセージは強烈でしかも重く響く。

●同じ日にもう一作別の映画を観る予定であったが、とてもそんな気持ちは失せてしまった。心に重く響く余韻に暫くは別の映画など観たくはないと思った。このブログも気持ちが落ち着くまでは書けなかった。

●暗く重い映画は嫌いだと何度か言ってきているが、ここまでのドスンとした衝動を受けたのでは好き嫌いというレベルを超えてしまっている。

●単純であり、特に奇をてらったような部分もなく、オーソドックスなストーリーでありながらこれだけの感動を打ち込んでくる映画。脚本、演技。

●邦画、洋画は小手先のごまかしに奔走するのではなく、この映画を最大級に見習うべきであろう。

●若い神父も復讐に同意した。神に仕える身でありながらも。そのとき、神父までもが復讐で人を殺しそれを正統なものとするという混沌によって、アメリカの病根を顕すのではないか?観ていてそう思ったが、流石のクリント・イーストウッド・・・そんなに単純な運びにはしなかった。やはり神父は神父として存在を保持した。そしてギャングに対する報復は老いて後先の短い自分の命を代償にすることによって成し遂げた・・・感嘆する結末であった。

●『ミスティック・リバー』ではアメリカの日常に、身近に存在する悪、その悪がなければ町も維持されない。日常に肩寄せあって悪も在ることによってでないと、より大きな悪は抑えられないというアメリカ社会の病根と悲痛さを表現していた。今回の映画ではベトナム戦争で祖国から吐き出された移民たちの中にアメリカと同じ悪が根付いていることを映画のなかで見せた。アメリカ人の悪ではなく、それが伝播した移民のなかの同じような悪を描くことで対比的にこの映画を観た人は自国の病根を再認識させられるのであろう。

●集団の中には必ず暴走し、悪を働き、手が付けられなくなる分子が発生する。黙っていてもその暴走はとめどなく激化するだけだ。そんな時日本では同じ民族、村、仲間の中の暴走分子を同じ仲間が排除(殺す)ことに建前上の理由をつけるため、自分達が仲間を殺すのではない、暴走した分子は外部から来たマレビトが天誅を下し、暴走分子を殺し、集団の平和を維持するのだとした。暴走分子を殺す人間は仮面を被り、化け物の格好をし、自分は外の世界から来たマレビトだとして暴走分子を殺し、取り除いた。仲間を殺したのは自分達ではないと正当化させた。なまはげやボゼはまさにその形が残ったものだとされている。この映画の中ではアメリカという社会の中に入ってきたアジア系移民モン族の中に暴走分子であるギャングが生まれ、タオを執拗に仲間に誘い、姉スーをレイプし、マシンガンを撃ちまくった。その暴走した異分子に天誅を加えるのが、元々住んでいたアメリカ人ということになっている。(コワルスキーも元々はポーランド移民だが)マレビトとして、暴走した分子を排除に行くのがアメリカ人だということは捉え方によっては非常に重要な示唆であるとも言える。アメリカ社会ではアメリカ人がマレビトとならなければ根付いた悪は排除できないのだとも取れる。アメリカ社会の大きな部分を締めるようになった移民、他国民族、その中にまで浸透してしまったアメリカ的悪。鬼の仮面を被りマレビトとして悪を追い出すべきは、異国から来たマレビト(移民)ではない、アメリカ人なのだと・・・

●人種の坩堝と言われるアメリカ、その国のごく普通のミドルクラスかそれ以下の町とそこにある現状はこんなにも荒れているのだと観ていて改めておどろかされる。「陽だまりのグラウンド」を観た時にも極普通の日常の直ぐ側にギャングや殺し、ドラッグなどがごろごろと横たわり、子供一人ではとても外も歩かせられないような町の姿が映し出された。この映画でもそうだ。自由に外も歩けない町・・・国・・・そんな国に幸せがあるのか? そんな国に自由があるというのか?

●映画の中で自国を非難する場面が何度かあった。ウォルトは「この国は俺を人殺しにしたんだ」といい、自分の軍隊での勲章を移民のタオの胸に付け、授ける。そしてウオルトがマシンガンの弾をあびて倒れたとき、右手に握っていたのは軍隊の紋章が付いたライターだった。彼が絶命するときそのライターは彼の握った手の中からこぼれ落ちる。クリント・イーストウッドが自分の祖国、アメリカに対してこれほどあからさまに非難の弾丸を撃ちこんでいる。アメリカの一つの象徴である映画の中でアメリカ人のクリント・イーストウッドが自国をあからさまに非難する。その点にこそ今のアメリカの病と闇の深さが滲みだしている。(遺言の中でも”アホな白人”みたいにグラン・トリノの尻にスポイラーなど付けるんじゃない。とか言っていた)

●俺達の国アメリカはどうなっているんだ、こんな国になってしまったんだ、こんな国を信じて俺達はおかしくなってしまったんだ。なんとかしなければどうしようもないことになるぞ。映画を通して老練なクリント・イーストウッドの悲痛な叫びが響いてくるかのようだ。その叫びは今のアメリカの年老いた、かってのアメリカを知る高年齢層の人たちの中で、激しく渦巻いている。だが、アメリカは自由と希望の国に戻れるのか?叫びは今のアメリカを支える層には届かず、若きアメリカ人は自分の富を蓄えることにしか目が無い。アメリカはもうかっての理想の国には戻る事は無いのではないか?高年齢層はそう悲しく諦めているかのようにも見える。 そして日本は? アメリカを模倣し、その傘の下にはいり・・・全く同じ道を歩んでいるのではないか?

●暴力が暴力を止めさせることはなく、新たな悲劇を生むという構図はこの映画の中でも繰り返される。またしても批評家はこれを9.11の比喩だとさもえらそうに語る。確かに、今のアメリカの姿に批判的とも取れるこの映画ではギャングを打ちのめした事によって生じた悲劇は9.11を暗に示しているとも取れる。しかしこのやったらやられる、やり返させるという構造は映画に関わらず、ずっと昔から人間という生き物のなかでずっと続いてて存在してきたものだ。昔の映画のなかでも同じような場面は多々ある。映画の中のある表現を取り上げてさも分かったように「これは9.11を示している」と言い続けているのももう陳腐だ。それだけ9.11が大きいのは確かだが、全てを9.11に、他愛なく関連付ける単純な思考こそ不気味だ。

●年老いた母親が死に、その葬儀に親戚が集まり、その場で残された財産を欲しがる連中が場を弁えず物乞いをする。これは「東京物語」とも同じ。人種が変われども、国が変われども、人間の営み、やることはどこでも同じなのだと思わされるシーンだ。

●話の内容からしてこういった作品にメジャースタジオが易々と製作にゴーサインを出すようなことはまずない。金銭計算に頭がいっぱいのスタジオ・サイドはヒットも望めないと判断するだろう。ワーナーのトップ俳優であるクリント・イーストウッドであるからこそ、その俳優としての実績、ワーナーの中での重鎮という位置であるからこそ作ることが出来た作品に違いない。ロバート・レッドフォードが「大いなる陰謀」を製作したように、普通のヒット、リクープ、金儲け主義のスタジオの頭ではこういった作品が如何にストーリーが良くても作られることは無い。それが作られるのは力のある俳優の強い意志が作用しなければスタジオは腰を上げようとはしない。自社に貢献した俳優の顔は立てるという程度の考えなのだろうが、そういった作品にこそ素晴らしい本当の映画らしい良いものが生まれてきている。本当の映画作りを進められるのは金勘定だけに頭がいっぱいの経営者などではない。この映画も最初はアメリカで限定公開から、クリント・イーストウッド主演映画では最大のヒット作にまでのし上った。ワーナーもこの重い作品を全国公開してこけたら大変だという怖さがあったのだろう。だがマンネリ化し、パターン化し、観客の顔色ばかりを伺うようになったハリウッド映画に、観客そのものもうんざりしているのだ。ヤラセ的シーン、演出ばかりでこてこてと埋め尽くされた映画ではない、本物の映画を本物の感動をアメリカの観客も求めていると言うことなのだ。

●数多くの映画に出演し、映画と共に人生を歩んできたクリント・イーストウッドが、もう80歳にも近い熟年になって次から次へと優秀な作品を世に送り出している。人生の経験を脚本、ストーリー、演技に反映させることで観客に納得される素晴らしい映画を立て続けに生み出している。果たして日本では??最近役者が監督をする作品もいくつか出てはいるが・・・それまでの役者として、映画に関わった人生の経験がまるで反映されていないような作品が続いている。年齢と経験を重ねるだけではダメなのだなと落胆させられる状態だ。60歳を過ぎた人間でなければ本物の作品など作れるはずがないと言った日本の偉大な監督がいた。ヴィム・ヴェンダースは80歳以下の人間の言うことなど信用するなとも言った。若さの感性よりも熟成された経験から生み出されるもの・・・映画という芸術においては後者に軍配が上がる。

●ずっしりと重い余韻と感動を受けた作品だ。こういった暗く重い作品は大絶賛するようなタイプではないし、自分としてももっと明るく爽やかな映画で感動したいという思いが強い。しかし、この映画はやはり珠玉であり、後々まで残る本物の一本であろう。