『グリーン・デスティニー』(2001)

●2001年、この映画を初めて観てエンドロールが終わり小さな試写室が明るくなったとき、自分は大きくフーっと溜息を吹いた。周りからも緊張の糸が切れたような溜息の音が聞こえ、その後に拍手が起こった。そう、あの時、チャン・ツィー・イーの美しさ、可憐さに息を飲み、この映画に魅了され、もうすっかり映画に心を奪われて感激していたのだ。「これはいい映画だね」そんな声も後ろの方から聞こえていた。ストーリーも面白いし、ワイヤーアクションも剣術も凄いと思ったし、チョウ・ユンファ、チャン、ツィー、イー、ミシェル・ヨーの剣さばきに凄い凄いと感心していた。

●非常に気に入った映画であったし、自分自身もこれは良いよと他の人に勧めたりしていた。あれから一度だけDVDで鑑賞したかな? それからもう大分時間が経つけれど、何とは無しにまた観てみようと思った。久しぶりに観てみたいと思った。

●劇場公開から10年、本当に久しぶりに、ちょっとわくわくした気持ちでDVDを再生したのだけれど・・・・あの時の、あのスクリーンで観たときの感動や感激が全然、全く戻ってこなかった。何故あの時あんなに感動していたのだろう? そんなふうに自分で不思議に思うほど、改めて観たこの作品が薄っぺらなものに感じていた。作品は10年経ってもなにも変わらないけれど、観る側の自分は10年経って随分と変わり、この作品を鑑賞する目も大きく変わってしまったということなんだろうか?

●チャン・ツィー・イーはやはり奇麗だ。屋敷に居るときのちゃらちゃらした小娘の感じから、草原を駆け、乗馬しながら戦うシーン。羅小虎を追い、そして恋に落ち抱きあう時の力強い目、眼力、顔つきという強い意志を持った女性までを演じる演技の幅はやはり凄い。モンゴルで撮影されたのだろうか? 美しい草原の映像。流麗なワイヤーアクション。息を飲む剣の戦い。竹林を舞うように飛ぶ美しく情緒あるシーン。その一つ一つが目を見張る素晴らしさを、息を飲む凄さを持っているのだけれど・・・・なぜか途中から映画その物が浅薄なチャンバラアクション物に思えてしまった。

●2001年当時、非常に感動したこの作品が、今再見すると、全く話に深みがなく、テレビドラマの時代劇のようなまったく表面的なおちゃらけ映画に思えた。

●これだけ印象が変わることも珍しい。映画を観続けてきた中で自分の中の映画を観る目も変わってきたのだろう。201年の今観る「グリーン・デスティニー」は感動という物とは違う、コスプレ、ワイヤーアクション、カワイコチャンの浅薄なエンタメ作品になってしまっている。今の自分はこの作品を他人に勧めることはない。あの頃の目と今の目、その違いは10年の間に変化してきた自分の感覚、感受性、ものの見方、映画の見方の変化そのものを表しているのだろう。

●過去に名作だと思っていた映画が、全然そんなものじゃなかったなと気持ちが変わってしまう不思議さ。映画に限らす、音楽でも、読書でも、そういった変化を感じるということは、それはその当時の状況、時代背景、自分の考えかた、色んなものが自分の中に反映された結果なのだろう。


●『グリーン・デスティニー』というタイトルも今までは別に何も考えず、それなりに映画に合ったタイトルではと思っていたのだが、改めて今回再見した後には、劇中登場する宝剣「碧名剣」 を英語読みでグリーンデスティニーとしているのはなんだか変な訳でもあるし、原題である『臥虎藏龍』を『グリーン・デスティニー』としたのも随分ととんでもない邦題の付け方だ。まだアメリカ版で『Crouching Tiger Hidden Dragon』として原題の意味通りに英訳しているほうが遙かにマトモである。

●碧眼狐(ジャイド・フォックス)・・・・・というのも、それなら日本語字幕でヒスイ狐とでもすべきか?  まあそれじゃあ却って変だが。中国語が英語に訳され、それが日本で字幕を付けるときに三つの国の言葉をごちゃまぜにして字幕にしちゃっている。これは奇妙なことでもあり、また実に複雑怪奇、だがそんなことが行われるのも日本という国の有る意味凄さ、変てこさなのではないだろうか?