『沈まぬ太陽』

●数年前に製作が発表され,遂にこの作品が映画になるのか!と思っていたらしばらくして頓挫。一昨年頃再スタートと思ったらまたストップ。(このときは原作者が脚本にOkを出さないと報道されていた。真偽はわからぬが)これでは映画化は進まないのではないか思っていたが、2009年になり遂にクランクインしたという情報が流れ、ようやくという感じで日の目を見ることとなったある意味曰く付きの作品でもある。小説が発表されたときから、題材として扱われている企業の圧力、他の言論機関からの攻撃などもあり、またこの小説の内容を映画化すれば、関係企業からの妨害、圧力が掛かってくることも明白であったため、日本の映画会社、プロダクション、芸能事務所などが敢えてこの小説の映画化には取り掛からないだろうとも思われていた。しかし、角川x東宝ともなれば圧力も跳返す力ともなりえたのであろう。この作品に製作に関しては”企業”が”大手”であるということが+の方向に作用したと言える。作品の取り扱っている内容から考えれば、それは皮肉とも言えなくもない。

●小説「沈まぬ太陽」は組織や企業の中で奮闘し、翻弄され、策し、騙し、貶め、出世、私利を貪欲なまでに求める人間の浅ましくも愚かで、悲しい姿とその心を描いている。そして、企業と企業を食い物にして生きる腹黒い政治家、権力側の悪しき体質も如実にそして辛辣なまでに描ききっている。それは他の山崎豊子作品とそのストーリーの流れ、色彩の並びは同じと言ってよいだろう。しかしこのシリーズには大きな問題点があるのだ。それは第三巻にあの1985年の大惨事、御巣鷹山日航機墜落事故を組み込んだことだ。

●シリーズ「御巣鷹山編」はあのあまりにも悲しく悲惨な御巣鷹山の事故をもとにして言葉が綴られている、長大な小説の中で最も力のこもった部分だ。だがそれは人間の薄汚さや卑猥さ、サラリーマンや政治家の薄汚れた腐敗を描いているシリーズの全体の流れとは甚だしく異質な内容だ。

●企業、政治家、組織、権力欲に捕らわれた人間・・・その腐敗。それがあの1985年の大事故に結びつく一要因なのだとして関連づけることも出来なくはない、だがあの未曾有の大惨事とその悲しさを、薄汚く腐った組織や人間の話の中に編み込み絡め、一つの物語にしてしまうことには絶対的に拒絶感を覚える。

御巣鷹の尾根に520人もの命が散ったあの日航機事件の痛みや悲しみや苦しみと、金儲けと出世の為に心底まで腐敗し、体から腐臭の漂うような人間の行為を、小説とはいえど同じ話の流れに並べて語ることには虫酸が走るのだ。薄汚く腐敗した組織や人間の腐臭とともにあの事故を語ることには絶対的な嫌悪感を覚える。たとえそれが人の命を扱う航空会社の倫理を訴えるためのものだとしても。

●第一部アフリカ編と第三部会長室編を繋ぎ、他の山崎豊子の小説のごとく企業、組織、そこに癒着して汁を吸う薄汚い人間、政治家に対する痛烈な非難を展開する社会派小説として成立させ、あの大惨事を扱う御巣鷹山編は単独小説として別個のものとして立脚させるべきだというのが自分の気持ちである。

●「沈まぬ太陽」は全編を貫く怒濤の迫力と筆力でその全てが秀逸な小説として後世にまで残り続けるであろう。だが、その中で最も心を慟哭させ孤高に佇むかのような「御巣鷹山編」が、人間の薄汚さや腐敗を滲みださせている小説の一部として存在することが自分の気持ちの中では許しがたく嘆かわしく思えて仕方ない。悲しくもある。

●作品の質とは別のところで「沈まぬ太陽」には自分の気持ちの中でぶれが生じている。いやそのぶれを感じるのは自分だけではあるまい。「御巣鷹山編」だけで一つの小説として独立出来る。とは数多の書評でも語られていることだ。「御巣鷹山編」があの大惨事を文字で表現したものの中で極めて傑出している。(事実歪曲だとかいう非難の部分は脇に置き、あくまでも書き物としての小説として)それだけに、同じく優れた書き物であったとしても、人間の荒みや薄汚さ、腐敗といった部分を剥き出しに露出させている小説の一部に「御巣鷹山編」が含まれていることは一本の連作の中の大きなぶれだ。そしてそのぶれは吐瀉したものを掴みさらに投げつけてやりたくなるような、長く続く胸焼けのような非常に不快な部分なのだ。

●映画そのものは3時間22分だれることのない渾身の作だ。インターミッションなど必要のないほど作品の力に引き込まれ時間の長さなど感じない。しかし、そしてやはり、この映画自体の主軸とテーマは人間や組織の腐敗、政治家や企業人のおぞましさ浅ましさだ。それが原作に忠実であり、原作をしっかりと理解した上での映画化なのだということは分かったとしても。

●あの1985年夏の大惨事に思いを寄せぬ人であれば、この映画をおぞましい腐敗した人間ドラマとして普通に受け入れられるかもしれない。だが、あの大惨事に悲しみ、心を震わせ涙した人にとっては、3時間22分の映画の中にあの大惨事が一つのエピソード、サイドストーリーとしてしか存在していないことを、心に落とし込めないもやついた気持ちで観る人もいるのではないか? 

自分と同じように。

●小説も、映画も、その話の背骨は恩地という主人公の生き様であり、それを生み出した企業や政治家の腐敗だ。日航機事故が主題でもなければ、話の本流でもない。小説も映画も一級の出来だと言って間違いない、だが、あの大惨事が一つの挿話として話の中に置かれていることに、私はどうしても受け入れがたい拒絶感を抱いてしまうのだ。

●映画が始まってすぐ、あの事故当時の機内の様子を再現した場面が流れる。酸素マスクが落ちてきて激しく揺れる機内で座席にしがみつく乗客の姿を見ただけで、自分はもうスクリーンを正視出来ず思わず目を下に向け俯いてしまった。123便のシーン、乗客の姿、機長らの様子、管制塔の様子、そんな映像を見ているとあの1985年の夏に、実際にこんなことが起きていたのだという思いが胸の中に込み上げてきて目頭が熱くなり映像を見ているのが辛くなってしまう。(あの123便墜落直前の機内シーンには死の恐怖を目前にした乗員乗客の恐怖や緊迫感が滲み出ているとは思わなかったけれど)

●自分にとってあの1985年夏の日航機事故は生涯忘れることの出来ぬほど大きなショックを受けた大事故だった。あの時受けた、感じた衝撃と慟哭は一生心の中に残り続けるだろう。映画「沈まぬ太陽」は監督、出演者、スタッフ、この作品に関わった人々の渾身の一作であろう。金儲け主義だけで作られた昨今の邦画とは、行き着くところはたとえ同じだとしても、この映画に関わった人たちの思いは別の所にあるだろう。2009年、いやこの何年かの間に作られた邦画の中でも、これほど力の篭った作品はない。この映画からは他の映画とは違う熱気が漂い出している。

●この映画は非常に見応えのある、重厚で秀逸な社会派映像作だ。この映画の良さは忌憚なしで認める。だが、自分はこの映画を好きにはなれない。今は、もう一度見ようとは思わない、いや将来に渡ってもそうかもしれない。それはいかにこの映画が優れた作品であったとしても、この映画の中にあの1985年の事故が傍流として流れているからだ。傍流として置かれているからだ。それは全くもって自分だけの個人的な好き嫌いでしかないのだが、この気持ちが変わることは無いであろう。あの事故が傍流として存在しているということが、自分の中では受け入れられぬ憤怒であるのだ。

●政治家や航空会社トップらの人命など軽視した所業がこの映画の中ではまざまざと描かれている。新聞記者などと威張り上げる者も同じく愚かで腐った人間として描かれている。そしてそういった人間によってあの事故は少なからぬ部分で誘発されたととれる演出が繰り広げられている。あの日航機事故の遺族の方は、この映画をまともに見ることが出来るだろうか? 遺族にしてもあの事故に関わった人にしても、この映画を観たら腸が煮えくり返る程の怒りを感じずにはいられないのではないだろうか。あの当時の自民党、総理大臣、運輸大臣、その他の政治家、そして航空会社の重役たちの描かれ様は、遺族の方が心穏やかに観ることの出来るようなものではない。

●自分たちの愛する人は恐怖の中で死んでいったのに、こんな愚劣な政治家や企業の腐った人間たちによってないがしろにされていたのだとこの映画を観て知ったら、遺族は憤りのあまりこの作品を見続けることは出来なくなるのではないか・・・映画を観ながらそんなふうに思った。

●決して好きになることはない秀作、情熱注ぎ込まれた力作。自分にとって「沈まぬ太陽」はきっとそんな作品であろう。

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