『動乱』(1980)

・この映画は初見だが、これは森谷司郎の作品だったのか。なるほど、この骨太、真摯、うわついたところのない映像と脚本はいかにも橋本忍らと一時代を作った人、森谷司郎の作品だ。

・武骨、骨太、真っ正面からの直球勝負、小手先の小細工などしない、堂々たるぶれのない、体当たりの映画、映画作り。そういうものが橋本忍森谷司郎の作品には通じている。どくどくと脈打つ血管のようなものだ。

・反体制、反軍国主義、民主的ではないものに対する徹底的な批難、これはある種の恫喝、扇動、弾劾、糾弾とも言えるものが、橋本忍やそこに集った監督らには色濃くあった。それこそが作る作品に図太い男の本懐、徹底的な人間の倫理、道徳、精神の気高いものを感じさせていた。

・この映画は1980年のものだけれど、きっと橋本忍森谷司郎は自分たちが若かりしころに感じた、日本への怒り、憤りを二度とこうあってはならぬと伝えたかったのだろう。

・製作陣の意気込み、ぶれない信念、反民主的なもの、組織、思考、時代への強烈な反発。そういうものが熱になって画面から伝わってくる。

・だが、今この映画のような時代を想像するのは難しいことだろう。空に食われずの貧困。飢饉で自分の娘まで売春宿に売らなければ生きていけなかった時代。そこで腐敗する政府、軍部、役人。なんとか食う分だけは与えられて最終的な反発が起きないように調整されているかのような現代だけど、こういう映画を観て「もしまたこんなことになったらどうなるんだろう」と思うことも大切であり必要なんだけど、今はこういう映画は作られないし、作ろうと思っても売れないからと作れない状況だろう。

・政官財にメディアまで絡んで、今の日本は226事件の当時よりひょっとしたらもっと悪い状態になっているのかもしれないのだけど。

・でも、今この映画を観ると、腐敗した政治や霞が関や財界の腐敗は行き着くところまで来ているし、そういうのを駆逐しなけりゃどうにもならないと、この時代の226事件を起こした青年将校らとおなじような考え方を持っている人は増えているだろうと思うのだけど。

・2時間以上の尺があるが、この時代をあらわすにはこれでも時間は足りない気がする。全体ではかなり早回しで515事件から226事件までをなぞっている感じがして、その事件を引き起こした様々な問題は並べてあるだけという気もする。それでも、こういう映画は必要だし、こういう映画は作り続けられなければならない。

オリバー・ストーンが『W(ブッシュ)」を撮ったり、マイケル・ムーアが数々のブッシュ批判、アメリカ批判の映画を撮ったりしたように、まだアメリカにはそれが出来る自由がなんとか残っているし、そうした映画を世界に向けて公開し、不正や腐敗を訴え糾弾する術を持っている。本当は日本だって『K(小泉)&T(竹中)』みたいな、あの政権の不正や腐敗を突き上げる映画がつくられたり『J(自民)&K(官僚)』『原子力』とか『政官財の癒着、腐敗』なんて映画が作られてもいいんだけど・・・ないよな、出来ないよな。たぶん今の邦画界では。

・映画作りに信念や気概があった時代の真っ直ぐな、真剣な映画。やっぱりたまにこういう映画を観ないとただ単に娯楽にだけ走り、受けを狙った映画にばかり目がいって、それがイイ映画だなんて思ってしまうようになるだろう。そういう風潮が今の邦画を凋落させているのだとわすれてしまうのだろう。

吉永小百合が刑務所にいる高倉健に自分が縫った新しい着物をもってきて、糸を抜く場面。これは全然今までしならかったが、はじめて着物を下ろすときには自分の恋人や父親に仕付け糸を抜いてもらうと幸せになるという言い伝えを行っているという。なるほど。

・撮影当時で吉永小百合は三十歳前半。やはり美しい。

☆2009-01-18
226』偏りのない、史実のみをストレートに追った秀作
http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20090118