『HANA-BI』

北野武映画はまったく好きではない。はっきり言えば嫌いである。なぜ嫌いか、それはヤクザ映画であり暴力映画であるからにつきる。もうあたかも今まで映像として映すことを憚られてきたようなえげつないシーン、残酷シーンを映し出すことに自己満足をしている、求めている部分があざとくプンプンに臭い「どうだ、ここまで酷いシーンは今まで映画になかっただろう、どうだこんなにどぎついシーンは見たことないだろう、今まで誰もやってないから俺がやって見せてるんだよ、どうだ、ざまあみろ」というたけしの顔がスクリーンに二重映しになっているかのようで、誰があんなものを見るんだ!と侮蔑してきたし、北野監督というだけで「勝手にどうぞ、あんな暴力ヤクザ映画なんか観る気になれないね」と言い放ってきた。

●もとはと言えば深作欣二東映ヤクザ映画の代役のお鉢が回ってきて偶然に監督をし、それ以降も調子づいてどんどん暴力ヤクザ映画をエスカレートさせていた。そしてなぜかそれが「凄い、素晴らしい」などと評価されていた。

タランティーノのバイオレンスシーンも決して好きなわけではないが、たけしの暴力シーンにはタランティーノが表現する映画の中でのバイオレンスとは別次の物を感じていた。別次といってもそれはより低次元というものだ。

●最近でもちょくちょく起きる、人間の屑の仕業とも言いたくなるような惨殺事件。女子高生コンクリート詰め殺人事件や、名古屋アベック殺人事件などのような、人間のどうしようもない愚かさ、くだらなさ、下衆さ、徒党を組むことで人間の理性の欠片すらも忘れ、脳味噌がグデグデに腐っているかのようなゴキブリが仕出かしている凶悪で残忍で非常に低能卑劣極まりない犯罪とその屑のような犯罪者。たけしの暴力映画にはそれと同じような異臭、むかつき、嫌悪感が、鼻の穴に粘着するようなドロドロとした人間の傲慢さ、本性の醜さが漂っている。

●「ほらどうだ、誰にもこんなことできねぇだろう、誰もここまでやるとは思わないだろう、だけど俺らはやるのさ、もう俺を止めることなんて出来ないのさ、ハッハッハ」そんなふうに犯罪を犯した異常な連中の狂った顔と精神状態が、たけしの映画の暴力シーンとそれを演じるビートたけしに重なって見える。

●たけし映画の暴力シーン、残酷シーンは、精神が腐った異常な犯罪者が沸騰した感情で、理性をどろどろにし、思ったままに人間を残酷に痛めつけ殺した、その異常な人間性の暴走に酷く類似している、いや同じ感覚、行為なのではないかと思うのだ。

●だから、たけしの映画を観ていると虫唾が走り、こんな映像を撮っている監督に対して嫌悪感が生じ、それがそのまま映画への嫌悪感に繋がっていく。

薄汚い欲望と感情を無軌道に解き放った映像。なぜにそれを評価する?なぜにそれを素晴らしいというのか?
極論すれば、たけし映画やその中の暴力"描写"を称賛するような映画評論家、関係者というのは、女子高生コンクリート殺人事件や名古屋アベック殺人事件の犯人の行為も称賛していると同じなのではないか? 

それが実際の事件ならば良識を全面に押し出して非難、否定し、それが映画の中、表現という言い訳が通じる逃げの場がある場所ならば、素晴らしい、凄い感性だと言っている。背反しているのだ。

●だから自分は「北野武の映画は最低だ、こんな映画を称賛する人間はどうかしている。何を勘違いしてこれを素晴らしいだ、なんだと言っているのだ、なんでこんな低俗な暴力映画が海外で評価されているのか、全然理解できない」と言ってきた。

●しかし巨匠と呼ばれるようになり、フランスで勲章をもらったりしていると、どうも最近はメディアが巨匠だ名監督だと持ち上げてばかりで、「たけしの映画は嫌いだ、どこがいいんだ?」と言うことが世の中で憚られているような風潮も感じる。嫌な雰囲気がいつのまにか毒ガスのように空気にまぎれて忍び込み足元に漂い出している感じがする。

やくざ映画、暴力映画なんか好きになるものか。なんでこんなやくざ映画、暴力、暴力団映画、人殺し映画がホラー映画やバイオレンス映画としてでなく、あたかも文芸作として評価されるのか? そこに大いに疑問を感じている。

●確かに、長々と台詞を喋ってあたかも役者に説明をさせているかのような作品が多い中、映像と映像を巧みに繋いで登場人物の心理描写をする北野武の表現方法は今の日本映画界では特筆すべきものがある。しかしだ、映画の中にいつも描かれているものは暴力であり、血なまぐさい惨殺の描写であり、無慈悲で非人間的な人殺しと暴力の映像だ。

北野武映画を褒める批評家や映画通は、いつも暴力の"本質 "部分に言及することを避け、さも気付かれないように、見ていないと思われるような素振りで脇を通りながら北野映画を褒めている。

敢て暴力描写の本質部分には触らず、足を踏み込もうとせず、北野武の映画は描写が凄い、素晴らしいと言っている。

●そうすれば映画界の流れ、主流から外れることなく、自分も正当な目を持った批評家だと思わせられると思っているがごとく、そう認めさせるが為に北野武映画を評価しているかのようだ。

●フランス人だろうが、アメリカ人だろうが、日本人だろうが、北野武映画を素晴らしいと褒めている人に聞いてみたい「あなたは、あの暴力や人殺しのシーンをどう思っているの?」「あなたはあの異常ともいえるほど簡単に人間を無感情に殺していくシーン見て素晴らしいと感じているの?」「あなたはこんな暴力映画を素晴らしい映画だというの?」と。

●普段、バイオレンス映画だとかスプラッター映画なんて軽蔑し、侮蔑し、あんなものは観ませんとか言っているような人が、なぜ北野武映画を観るのか、そして素晴らしいとか言うのか? 北野武映画はもろに暴力、ヤクザ映画であり血糊が飛び散る映画じゃないの? 違う?

●もちろん、最近の北野武映画は暴力ばかりじゃなくなってきてはいる。だが、北野武映画の多くは目を背けたくなるような暴力映画が殆どだ。

北野武映画を評価する人たちは、片目を瞑って映画を語っている、それも都合よく。

●暴力の部分は観ない振りをして、もう片方の目で暴力描写以外の部分を観て、暴力部分を抜いて北野武映画を良い、素晴らしいと評している。

●そこが非常に気に食わないし、そういうことを言っている、やっている評論家などという連中は強く気持ち悪く虫唾が走る。

まるで東電と原発を養護していた御用学者、御用芸能人の如くでもある。(追記

●北野たけしを評価する映画評論家、文化人(気取り)、文筆家、芸能人、その他もろもろは、海外で高い評価をされている北野武をフォローすることによりあたかも自分も日本人的な感覚ではなく北野武を素晴らしいと理解出来る一人なんですよ、私も海外の批評家と同じレベルなのですよ、私の感覚は国際的なものに近いのですよと周りの意識を誘導したいと思っているのではないか?私は海外の批評家と同じで北野たけしの良さが解るのですよ、とでも言いたいかのようだ。

人気ある人をフォローすることにより自分もその人気の分け前にあやかりたいとするような人間ではないか!と思うのだ。
 
●これを知人と語り始めると必ずといっていいほど論議になり、いつも話はバチバチと火花を散らしてぶつかりあうだけで話が納得するところに落ち着いた例がない。だが、都合のいい部分ばかりを取り上げて評価し、そうでない部分はあえて触れず、知らない振りをして、痛いところを突かれても無視してやり過ごそうというような姿勢はあたかも、自己都合だけを優先し、国民の為なんて口からでまかせをしゃあしゃあと言っているこの国の政治家のコピーのごとくだ。つくづく嫌悪感が込み上げてくる。

●とはいえ、自分も、台詞で説明するのではなく、映像で、シーンの連続で感情を伝えようとする北野たけしの映画スタイルは良いものだと認める。しかし監督の映像表現のスタイルを評価することと、その映画の中身を評価することは別だ。

●数多の映画批評家は映画の中身、北野武が描いているものを評価していない、しようとしていない。彼らが始終、良い良いと言っているのは主に北野たけしの映像表現のスタイルであり、彼らは暴力描写を評価して自分への評価がマイナスになることを自ずと避けている。

●あの、北野作品の嫌悪感をまき散らすかのような暴力、人殺し描写には目を瞑り、北野たけしは凄い、最高だなどと言っている批評家にはケッ!と唾を吐きかけてやりたくなる。

●ある人は「日本人は「個人」や「個性」が剥き出しになると嫌悪感を抱く事が多い」と言っているが、あなたは見るところを間違えていると言いたい。北野たけしの映画においては、個性がむき出しになった点に嫌悪感を抱いているのではない。あの暴力に、人間の残忍さやむき出しになった感情の残虐さとその表現に嫌悪感を抱いているのだ。

HANA-BIのことではなく、北野武映画とそれを称賛している人達への批判になってしまったが、ここまで書いたことは素直な気持ち。そう、自分の中では北野武映画は大嫌いのトップクラスに入るものだ。

●それでもやはり北野武映画を観るというのは、やはり自分も数多の批評家の賛辞が気になるからだろう。しかし、今度こそは違うのか?と思いで新作を観ても、やはり失望するだけだった。

●だいたいにして、北野武は副業で映画監督をやっているのだし、彼の映画には「もっと凄いものを作りたい、もっと凄い映画を作りたい」という映画監督が普通に持つ情熱が微塵も感じられない。感じられるのは「もっと驚かしてやろう、もっと酷い絵を見せてやろう、もっとひっくり返して期待をはぐらかしてやろう」という、それこそお笑いの漫才TV番組をやっているのと同じひねくれた熱意だ。いや、それは情熱なんていうものではなく、ひねくれた天の邪鬼根性といったほうがいいだろう。

●なんだかんだ言っても海外でこれだけ評価される理由の一番の部分は"台詞で説明をしない“ところだ。日本の他の映画監督、特に若い監督、そして脚本家も北野武映画の良い部分、海外で受けている部分をもっと真似したらどうなかと思ってしまう。一週間おきにしか撮影をせず、TV出演の合間に映画を撮って、本業ではない副業でやってる漫才師の映画監督になんで日本の若い、いや若くなくてもいい、多くの監督は映像表現で追いつけないでいるのか? 評価されないでいるのか?たけしの映画撮影の様式を真似たらどうなのだ? 真似た後から自分を出していけばいいではないか? それすらせず、いつも長々とした台詞で状況からなにからを説明し、まるでシーンを口で説明している役者を撮影しているかのような映画を撮り続けている日本の映画監督。『重力ピエロ』なんて全部役者に口で説明させているようなものだった。これは脚本家と監督の駄目さの証明のようななものだ。だからいつまでも副業監督の北野武にすら追いつけないでいるのだ。

北野武映画を観る度に、映画にも、監督にも、他の日本の監督にも脚本家に対しても腹立たしさが込み上げてきてしまう。

北野武映画の中ではビートたけしが出ていない映画に良いものがある。『あの夏いちばん静かな海』はなかなか良かった。今からしてみても、北野武はこういった作品をもっと撮ればいいのにと思ってしまう。だが、本人の思いはこういった作品よりも人殺しの暴力映画に向いているのだろう。黒澤明や淀川さんが北野武を評価したのは『あの夏一番静かな海』を観た辺りからではないかと思う。北野武黒澤明の対談でも『あの夏一番静かな海』が取り上げられていた。黒澤明も淀川さんも、その後の北野武映画を観ていたら同じように北野武に良い評価をしていただろうか?「君、撮り方は良いセンスあるんだから、もっと真面目にまともな映画を撮ったらどうなんだね」なんて言ってたんじゃないだろうか。がっかりして・・・。

●『HANA-BI』もこんな暴力シーンに絡めないで作ればもっと良い映画、心を打つ名作になりえたのではないか?北野たけし作品の中ではマトモな方だとは思うが、それでもやはりこの映画でヤクザだ暴力だというシーンがずっとながれていると、やっぱり北野武映画はもう生理的に嫌いだと思ってしまう。

●今のところ『あの夏いちばん静かな海』『DOLLS』『HANA-BI』位は北野武映画でもなんとか観ることができるものだが、他の作品はもうどうでもいいという思いである。最近の作品は端から見ようとも思わなくなった。

●映像を繋いで感情を表現するセンス、それは確かにある。だが所詮副業監督であり、世の中を、人をおどかしてやろうだとか、びっくりさせてやろう、がっかりさせてやろうなんていう気持ちが映画作りの出所であるならば、真に素晴らしい映画など生み出せるはずがない。そんないい加減な監督に「日本を代表する映画監督」なんて名称をほしいままにされている日本の映画界というのも限りなく情けないと思ってしまう。
 
北野武の映画が後世に残る名作になるとは、とても思えないし、もしそうなったらケッとそっぽを向くだろう。たとえ誰がどう言おうとも。

●海外で北野はスバラシイと言っている人は、過去の北野作品を観ているのだろうか? とても巨匠だ、日本の名監督だなんて言われるような作品は撮っていない。どちらかと言えば愚作のオンパレードと言っていいものだ。


その男、凶暴につき』(1989年)
『 3-4×10月』(1990年)
◎『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)
ソナチネ』(1993年)『 みんな〜やってるか!』(1995年)
キッズ・リターン』(1996年)
△『HANA-BI』(1998年)
菊次郎の夏』(1999年)、『BROTHER』(2001年)、
○『Dolls』(2002年)
座頭市』(2003年)『 TAKESHIS'』(2005年)『監督・ばんざい!』(2007年)
アキレスと亀』(2008年)『アウトレイジ』(2010年)