『ゼロの焦点』(2009)

松本清張の小説と、それを映画化した1961年版の『ゼロの焦点』は小説も映画も不朽の名作として語られている。現在に至るまでの様々なミステリーの原点だとも言われている。

●だが、1961年版『ゼロの焦点』は自分としては「こんなものか?」という感想に留まる作品だった。500ページ近い原作が1時間35分の映画となり、内容もラスト30分でまるで探偵にでも早変わりしたかのような、鵜原禎子が次々と事件の裏を解き明かし、しかも延々とそれを説明するかのようにナレーションと喋りが流れる。名脚本家 橋本忍山田洋次の二人をもってして、これほどまでに説明に終始するシナリオ、映画とは一体なんなのだろうと思った。「説明しなきゃ分からないものは説明しても映画では分からない」というのが黒澤明の映画信条ということだが、全部説明して話に落ちを付けている1961年版『ゼロの焦点』は映画として間違っているのではないかとさえ思った。

●そして松本清張生誕100年を記念して再映画化された2009年版『ゼロの焦点』は、尺が131分と1961年版よりも36分も長くなりながら、結局は1961年版と同じで、急に探偵もどきに変身した鵜原禎子が事件の種明かしを喋りつづけてストーリーに落ちをつけるという、映画としての進歩も新しい解釈も感じらない作品であった。

●1961年版は膨大なページ数の原作小説を1時間半の尺に収めるため、主人公にミステリーの種明かしを全部説明させるという、映画、脚本にあるまじき、ご法度の手法をとって無理やり話をまとめたのかもしれない。だが何故そんなことをしたのかはわからぬ。当時の映画は今と比べても長いものも多かったし、なぜ長大な小説を1時間半に収めようとしたのかは疑問だ。せめて2時間、いや2時間半の長さがあれば、名脚本家の二人はもっと別の演出をひねり出していたのではないだろうか? 1時間半に収めるために無理やり説明手法で落ちを付けたのか?それともあまりに長大な小説に最初から橋本忍はこれを映画化することは無理だと匙を投げ、やけくそで、どうでもいい、とにかく終わらせようとして説明手法で逃げたのか? どちらかは本人に聞かなければわからぬことだが、後者のような気がする。本来の橋本忍山田洋次なら、映像で納得させるのではなく、観客にしゃべって説明するような脚本など作らないはずだ。これは明らかに脚本の手抜きであり、逃げなのだ。

●そして、2009年版はどうか? 犬童一心が新たな解釈で、新たな手法で『ゼロの焦点』を本来の映画の形に練り直してくれているかと期待もしたが、それはなかった。2009年版は1961年版に多少の修正や追加、新演出は加えているが、一番の問題点である主人公が延々と説明してミステリーの種明かしをするという映画、脚本にあるまじき欠点をそのまま踏襲している。

犬童一心は、ミステリーの種明かしを主人公に喋って説明させるという安直であるまじき形を何故踏襲したのか? 過去作への敬意か? それとも新たな演出をすることで湧き上がるかもしれない観客のブーイングを恐れたのか? それとも面倒だから1961年版の脚本をほとんど準っただけだったのか? これも当人に聞かなければ分からぬことだが、2010年の今、犬童一心なら全く新たな『ゼロの焦点』を作り上げるかという期待は泡と消えた。これでは近年続いた名作リメイクの失敗に2009年版『ゼロの焦点』も加えざるを得ない。

●作品の時代背景であり、作品の根底に横たわる絶対的な状況、戦後アメリカ軍の占領下だった頃の暗く悲惨な日本の姿は明らかに1961年版の方が如実に描かれている。白黒映像とカラーの差はがあるとはいえ、2009年版に作品背景の暗さ、悲惨さは滲み出していない。というか、その暗さを浮かび上がらせようとしていなかった。登場三女性をフィーチャーした、まるで資生堂TSUBAKIの宣伝かと思われるようなパプリ用のポスターや画像。そこには松本清張の作品世界を伝えようなどという思惑はゼロであり、完全に人気女優のコスプレで客を引こうとした魂胆しか無い。

●要するにこの2009年版『ゼロの焦点』は、過去のヒット作の冠、松本清張生誕100年の冠を借りているだけで、松本清張が描こうとしていたもの、伝えようとしていたもの、指摘し問題提議しようとしていたものを今の時代でもう一度伝えようなどという信念も心情も思想もなく、『ゼロの焦点』と『松本清張』という皮を被り、単に過去作を準えて映画をつくり、客を引き寄せ、当てようとした魂胆しかないのだ。

だから、この作品は決定的に薄い、軽く、そして浅い。

松本清張が描こうとしていた、ずぶずぶと薄暗く抜け出し這い上がろうとしても這い上がれない暗い混沌とした時代の闇など描こうとする意志は全く無いのだ。

それが結局、この映画の浅はかさであり、軽薄さであり、吹けば飛ぶような紙芝居のごとき軽さなのだ。

松本清張の原作世界を表現し伝えようとした映画ではなく、作者と作品の名声だけを借用し、流行の女優を並べ飾り立て、ただ単なるに見世物として作られた映画。それが2009年版『ゼロの焦点』といえよう。

●そもそも、戦後占領下の日本の暗さ、混沌を今の時代に描いても高齢の人以外には伝わりようもないかもしれないが。(この映画では高齢の人にもそっぽを向かれるだろう)

○映像の作りこみはかなりしっかりしている。予算がたっぷりあったのだろうと邪推もできるが、昔の金沢の町並み、電車、風景は良くできている。『ALWAYS 三丁目の夕日』にあったようないかにもCGIといった作りの安っぽさはなかった。

○主役が広末というだけで、それは駄目だろうと引いてしまったが、古き時代の素朴で幼く、ある意味あまり頭の切れもないような純朴な女性のイメージは広末に合っているのかもしれない。今の女性を演じ、あのアヒル口の笑いをしているようだとこれは駄目だとなるが、今回は広末のパターン化したしょうもない部分は殆ど見られなかった。

○1:37から種明かしの説明が始まってしまい、あとはもう映画でも演出でもない説明映像。

中谷美紀にしろ、木村多江にしろ、戦後の時代の暗さや重さを背中に背負い込んでいるようには全く見えない。しっかりと作りこまれた上出来の背景の上で、ひらひらの紙人形が芝居をしているかのようだ。時代背景の中に人物が溶け込んでいない、ずっと後ろの壁に描かれた風景を背にして、三人は表面的な演技をしているに過ぎない。女優もその演技も、松本清張の作品世界を飲み込み吸収し、体から時代の体臭を放つまでに至っていない。

○結局この映画は、豪華な背景セットの前で三人の女優が人形のように動かされ踊っている、それだけの映画といえるかもしれない。

○エンディングの中島みゆきの歌は、このがなるような歌い方。なんなんだこれはと思わずのけぞってしまった。どうゆう感覚、センスで最後にこの曲を? めちゃくちゃだろうと言いたくなった。