『 レジェンド ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ』DVD

●そういえば、90年代始めはレゲエが日本でブームになりはじめた年だった。流行りに乗った若さは、スタイルだとかカッコだけでレゲエを聞いていたのだけれど、あの頃はダンスホール・レゲエもラバーズ・レゲエもルーツ・レゲエも、いやそんなレゲエを分類する言葉もなにもなかった。ルーツ・レゲエなんて今考えても変な言い方だ。あの頃のレゲエはやはりボブ・マーリーでありジミー・クリフが中心であったわけで、決してお洒落でも格好いいものでもなく、なにか反体制的なスタイルに魅かれてレゲェを聞いていた気がする。その後のラップなども似た流れをもってブレイクしたのだろう。

●そもそもボブ・マーリーの唄は非常に反体制的であり、日本でいえば反戦フォークだとか1960年代の音楽に近い。もっと別な表現ならば演歌だとも言える。それが何故20前後の若者を中心に大流行したのか。ボブやレゲエという音楽の持っていたメッセージ性よりも、ドレッド・ロックの髪型、ボロ切れを着たようなファッション、日本の日常生活からすれば異常としか目に映らないレゲエ・ミュージシャン達の姿格好を、反体制、反社会的姿勢のアピール方法として表面的に利用したとしか思えない。レゲエを聞き、レゲエの格好をしていれば「あいつは普通とは違う奴だ、変わってる、近寄るな」的メッセージを発することが出来た。それは暴走族の特攻服やスカジャン、リーゼントなどと同じだ。時代によって異なるが、”若さ”が大人への反発や反体制という姿勢を示すことで己の存在価値を高めようとする、思い上がった考えを持つ。その流れにレゲエのブームが繋がっていた、便乗して利用されていたのだと思う。

●久しぶりにこのDVDを観ていたら、80年代後半から90年代中頃にかけて日本でブームとなったレゲエとレゲエの夏フェスの数々を懐かしく思い出した。

●1992年(平成4年)8月のレゲエ・サンスプラッシュは川崎球場だった。フェンスによじ登り奇声を発して歌う男を警備員が何人もかかって引きずり降ろそうとしていた。ステージはまるで暴動の輩に囲まれたかのようになり、アリーナは爆発しそうな大騒ぎ状態だった。確かアスワドが出演する前、主催者側の人間がステージに出てきて「これ以上騒ぐようならコンサートを続行できません。みなさん落ち着いて静かに鑑賞してください。そうでないとコンサートを中止せざるをえません」とマイクで喋った。その瞬間会場からウォーっという津波のようなブーイングが起こり、さらにステージに立ってマイクを握っていた主催者側の人間に向かってロケット花火が打ち込まれた。主催者側もこれ以上変なことを言っては本当に暴動になりかねないと判断したのか逃げるように引き下がりアスワドが登場しサンスプラッシュはなんとか終わった。球場の外に出ると機動隊か警察の装甲車両のようなものが来ていて会場周辺に睨みをきかせていた。あんなコンサートはいまだかって経験したことのないものだった。

●91年から94年頃までレゲエ・ジャパン・スプラッシュ(REGGAE JAPAN SPLASH)は横須賀ポートランドに場所を移して行われた。あのころのレゲエの夏フェスは一回か二回やると余りの観客の暴れ回り方に開催地を追い出されあちこちを転々としていた。自分が行ったのは何年のフェスだっただろう? 93年か94年だったかと思う。最初は電車で、二回目は車で行った。

●93年の思い出として今でも耳に残っているのはラスト近くになって登場したアイ・スリー(I-THREE)だった。この年のジャパン・スプラッシュの大目玉はアイ・スリーだった。ボブ・マーリーのバックコーラスを勤め、ボブの妻であったリタ・マーリーもいる、ボブと最も近しく音楽を共有していた3人の女性グループ。アイ・スリーの登場がアナウンスされると会場全体が沸き立つような声で膨れあがった。そして、彼女ら3人がステージに登場したとき、会場は空気が消されたかのように全く音もなく静けさに包まれた。彼女らが軽やかに美しく響き渡る声で歌い始めたとき、身震いがした。ボブが日本にやって来たに等しいように感じられた。そして”ノー・ウーマン・ノー・クライ”が横須賀の潮風に乗って耳元まで流れてきたとき、その歌声の響きは体中に伝わった。アイスリーの高らかな歌声が血管の中を流れる血液まで振動させていたような、そんな感じだった。
コンサートが終わってからふらふらと人の波に押されて汐入の駅まで歩いた事を覚えている。

●横須賀ポートランドでのレゲエ・フェスにはその後ももう一度友人と行った。横浜横須賀道が渋滞していて、開演時間に間に合いそうになくなった。確かインターを降りて車を停める場所を探してうろうろしていたら、あの当時は路駐なんてそんなに厳しくなかったのだが、上を京急が走る鉄橋を越えた辺り、場所はもう覚えていないのだけど、今で言う県立大学の裏当たりかな? 車でうろちょろしていたら地元のおばさんが「ここなら停めておいていいよ」と自分の家の畑の端っこに車を停めさせてくれた。あの日も暑い夏だった。

●暑かったあの夏。1994年レゲエ・ジャパン・スプラッシュそして横須賀

●この映像を見ているとあの夏を思い出す。

ラスタファリズムという一つの信仰を崇高なまでに信じ、エチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世を現世の神と崇めたボブ・マーリーだが、アフリカへの回帰を叫んではいてもそれを誰にも強要しなかった。組織をつくろうともしなかった。一つの宗教、信仰を盲信した人間はそれを他人に強要し、信者を集め組織化しようとするのが常だ。ボブ・マーリーラスタファリズムという振興宗教を強く信じ込んでいたのだが、彼はそれを誰にも強要せず、歌で自分の考えを伝えることだけをした。彼の信仰の熱は常に自分の中に向かっていたのかもしれない。だからこの映像の中でボブがラスタファリズムの事を喋っていてもおかしい狂信者とも、異常な考えを持った人間にも思えない。かれの純粋さが宗教の話をしていてもそこに胡散臭さを滲ませないでいるのだろう。

●日本でレゲエを歌ってる奴が「ラスタファァイ」だとか「ジャー」なんて言葉をステージで口にしているのを聞くと虫酸が走ってしまう。レゲエをファッションとして発している言葉、セリフだとしても、信念も信仰もまるでない者がそんな言葉を軽々しく叫んでいるのを聞いたら、天国でボブ・マーリーは涙を流して嘆いているのではないだろうか。

●そんなボブ・マーリーも36才という若さでこの世を去った。(1945年2月6日 - 1981年5月11日)余りに若すぎる死。税金を蜜のようにしゃぶりアブラムシのごとく太った政治家はおおむね長生きをしている。70,80になっても古狸の顔をしてのうのうと生きている。それに引き替え、芸術家や音楽家は短命なことが多い。やはり自分の命を短い間に燃やし尽くしてしまうのだろうか。

●今はもう夏のレゲェ・フェスもなくなった。夏が終わり掛けた頃、このボブ・マーリーのDVDを見ていると、80年後半から90年初頭に掛けてのレゲェブームと暑かったあの夏のコンサートを思い出す。

●いつのフェスだったか記憶が定かではないけれど、綺麗な夏の浴衣を着て、団扇をもった女の子の後姿がデザインされたフライヤーがあった。その女の子はドレッド・ロックしているのだ・・・なんてカッコイ、なんてすてきなデザインだろうと思ったっけ!あのフライヤーはどこにいっただろうか?

●これは音楽のDVDというよりも1人の若い熱い強烈な個性の男の伝記とでも言えるものだろう。

◯2010/4/29追記:1996年「レゲエ・ジャパンスプラッシュ`96 in Tokyo」のパンフレットが見つかった。8月4日豊洲のベイサイドスクエアで行われた野外フェスだ。暑かったね、あの夏も。そしてこのパンフのデザインにモノ凄く感激した。
青空、麦わら帽子、浴衣、団扇・・・日本の夏を感じさせるものをこれだけ巧く使ってレゲエを表現してるなんて。なんてカッコいいんだろうって思ってた。麦わら帽子を被った女の子、ラスタカラーのラインが入った浴衣、そして団扇、髪の毛は・・・なんとドレッドロックじゃないか!最高にカッコいい。なんて粋なデザインだろうって思って大事に取っておいたんだよね。こんなに気の利いたカッコいいデザイン、なかなかお目にかかれない、最高に好きだ、この絵!