『秋刀魚の味』(1962)

●いつも通りの小津安二郎の構図。様式美。「東京物語」で見慣れた人の配置、ビルや煙突の風景描写。古い昭和の家。女優の登場シーンなども「東京物語」とかぶる部分は多々ある。ようするに、小津安二郎の場合は同じことの美しさ、変わらぬことの美しさ。本当に美しいものはいつでも、どんな時代でも、どんな話しでも同じなのだということなのだろう。

●きっと若かったころにこの映画を観ていたら、退屈だなぁと思っていたかもしれない。それが今観ると、いつも通りの小津安二郎の構図、ストーリーに妙に安心感を覚える。あ、いつもの小津だ、やっぱり小津だと・・。これは日本的に言えば、水戸黄門とか、落語のように落ちが分かっていても、いつも決まったものだと分かっていてもやはりそこには味わいと深みがあり、同じ物でも感動はわき出てくるのだという文化的な特色なのかもしれない。海外で小津の評価が高いことに、どうしてなのだろう?と思っていたのだが、どちらかといえばヨーロッパの歴史のある国での評価が高いと思う。それはやはり歴史のある国、その文化は日本のこんな庶民的な生活を描いた映画にでも共感しうる同じ土壌を持っているということなのだろう。

小津安二郎の作品はエンターテイメントではないと思う。これはやはり純文学なのだ。大衆小説でも、ミステリーでも、娯楽小説でもない。歴然とした純文学なのだ。

●今の映画界ではこういった作品を作り、上映することはもう殆ど厳しいであろう。

●人生は結局最後にはたった1人なのだ。そういう達観した小津安二郎のメッセージは、やはり歳を重ねてこなければ分からなかったかもしれない。この映画、小津の作品は名作として名高いけれど、若い年齢層にはけっして理解しえない、人生の重さを噛みしめた人にこそ分かる映画なのだろう。

秋刀魚の味・・・・最初はまるでタイトルの意味するところが分からなかったのだけれど、秋刀魚の腑を食べたときのあのほろ苦さということであったのか。


●んー、もうこれは普通に映画として観ている作品ではなくなっている。やはりこれは文学である。映像が表現する文学なのだ・・・そんな映画が他にあるだろうか? 文学のストーリーではなく、映画のストーリーから文学を表現した映画が他にあるだろうか? 
なるほど、やはり小津は凄いのだなと改めて感服した。