『砂の女』(1964)

●不気味な映画であった。モノクロの絵はそれこそウルトラQだとか怪奇大作戦だとかいう古い円谷プロのSFテレビシリーズのようなイメージ。

●男と女の肌に付く砂粒、汗、モノクロの映像ゆえにそのじとっとしてべたつく砂の感じがかなり強烈に伝わってくる。夏の砂浜を走って、汗をかいて首筋や手に風で飛んできた砂粒がベタリと粘着したような感じ。それが絵から如実に染み出してきている。こういうモノクロ映画を撮るテクニックというのは凄い。モノクロしかなかった時代に如何にして対象をフィルムの中に再現し、映画を観た人が生のように対象を感じられるかということを相当に根詰めて考え抜いた上で撮影されている。なんとかして生の現実をフィルムに焼付け再現しようとしたその努力が画面からひししとして伝わってくる。今とは違うな。

●砂の壁がザザザと崩れ行くシーン、砂の中を小さな虫が這うシーンなども観ていてハッとさせられる部分。部分部分の絵が非常に特徴的であり、ただ単にカメラを回して撮影しているのではなく、かなり細部まで考え抜いて撮影された絵であろうと想像させられる。

岸田今日子が30歳過ぎのときに撮影。岡田英次は美男。岸田今日子はもう熟年の女優としてしか知らないし、出演作も歳をとってからのものしか観てはいない。どうも目と口が大きくてかなり個性的な顔立ちとしかイメージが沸いてこないのであるが、この映画の中での岸田今日子は確かに妖艶な雰囲気を漂わせ、エロスを感じさせる女性である。いかにも田舎の生活に閉じ込められ、そこでしか生きていられない女というものを見事に演じている。そう、この映画の中の岸田今日子は見事に”女”というものを演じている。そして岡田英次も浮ついているのではなく、しっかりとした意思と信念があり、けっして弱い精神をもっているわけではないのだけれど、なぜか女との生活に馴染んでいってしまうところの演技が見事。これは演技力もあるが、やはり監督の演出力であろうか?

●ストーリーは非常に分かりやすいのだが、理解しにくい。ある地方の村社会の中で不合理に閉じ込められた生活を強いられる人間の話なのだが、昔は地方にいけばこういう集団の中の不合理が割と日本のそこら中に存在していたのだろうなと思ってしまうところがまた怖い。

●映画としては不気味な作品。身震いするような怖さではないのだが、今の目で見ればこれもホラーと言っていいかも? 安部公房に関してはその思想だとか哲学性だとかの部分であれこれ沢山論じられているし、ネットでちょっと「砂の女」のことを検索してみても、やたら難しい言葉や西洋の哲学者の名前などを並べ立てた論評などが多い。1960年台当時はたぶんこういった作品とか思想を論じることが世の中のインテリの証でもあったかのようだ。小説、文学として論じているものは脇においておいても、映画として論じているものも「あれは何々の比喩だ」「あれは社会構造の何々を表現しているのだ」などという解説が非常に多い。9.11以降アメリカの映画はことごとく「あれは9.11を象徴している」「あれは9.11を比喩している」なんて論調が目立ったのだが、自分としてはそういったものはあまり受け入れる考えは無い。なんでもかんでも、アレはああなのだ、アレはアレなのだと言って目の前に映し出された一つの表現を他のものに結び付けてもしょうがない。結び付け方も人それぞれでいくらでもどうにでもなる。だからあまり深読みしたり、他のものとの比喩や関連付けを強調したりする解説や評論はこれもまた受け入れてもしかたないと考え側に置いておくこととする。

●映画としては確かに映像の持つ力、迫力、ニュアンス、温度感、情感といったものが凄い。じわじわとこちらににじり寄ってくるかのような映像であり絵である。まずはそこに驚かされる。ストーリーは難解と言われる安部公房の作品の中では分かりやすい。ただそれがアレを表現している、アレを比喩しているという部分は繰り返すが別。とてもじゃないがそこまで考えを及ばせてはいられないという気持ちにすらなる。裏読みせずに目に飛び込んでくる映像とストーリーをこそ観るのならば、話は単純でもある。しかし映像の強さはあるものの、そのじわっじわっというスタイルで2時間半もの長さを継続させられるとこれはちょっと怠惰。じっと真正面に見て全編を鑑賞するのは結構辛い。面白くてぐいっと引き込まれるようなストーリーではなく、観てふううんと思いはするけれど、とてもじゃないが面白いとかいう類の映画ではない。

●強烈なイメージの岸田今日子と、不合理な状況に閉じ込められながらも、発狂するわけでもなく、怒りを撒き散らすわけでもなく、脱出の努力は続けるけれども次第に閉じ込められた生活に馴染んでいってしまう岡田英次が奇妙でもあり、摩訶不思議にも感じるという印象が残った。人間を非人間的な扱いをして砂倉の中に閉じ込めている村人達とそのシステムなのだが、なぜか彼らに根本的悪人性も感じられない。

●暮れも迫った時期に妊娠がわかり、砂穴から運び出される岸田今日子だが「いやだぁ、いやだよぉ」と力なく叫ぶのは医者には間に合わず自分が死ぬために穴から出されることを知っているからだろうか?この部分もちょっと怖い。

●最後には浸透圧を利用した浄水方法を見出した岡田が「このままもう少しここに居てもいい、急ぐことも無い」と残された縄梯子を上って穴から逃げ出すことを止め、砂穴に戻るというのがかなり印象的。結局のところ人間は取り巻く状況に徐々に感化され、じとじととゆっくりと砂のようなものに包まれて状況を受け入れてしまって生きていくのだということなのだろうか?・・・まあ作品の解説は難しい文字を並べた文学批評のページに任せるとする。

●脚本も安部公房が担当している。監督は勅使河原宏黒澤明の「羅生門」もそうだが、ヨーロッパなどではどうもこの手のなにか良く分からない、妙に抽象的で受け取る側によって様々に意見がわかれるようなアンニュイな作品が好まれる傾向があるかのようだ。外国での上映の場合、セリフを文字に置き換えての上映になるため日本でそのまま上映するよりも映画に文学的なインテレクチュアルな要素が加味され、そこがまた自分のインテリジェンスを自認するような人に受けるのではないかと思ってしまうのだけれど。

●オープニングで判子を使ったキャスト、スタッフの表現はちょっと奇抜で面白い。唯一無二。

●まあ、やはり訳の分からなさのある映画であり、面白い映画というわけではない。勅使河原監督の作品というのもやはり特殊であり、妙に”文学”的なのか? 他の作品はほとんど観たことがないな。

安部公房が1962年に発表した小説の映画化。 第14回読売文学賞、フランスでは最優秀外国文学賞を受賞。二十数カ国語で翻訳・・・・とのこと。安部公房と言えば中学か高校の教科書に「赤い繭」が載っていて(懐かしい)それを読み終えたあと、クラス中で「なにこれ?」「わかんない?」なんて会話が飛び交った思い出がある。国語の先生はあれこれと作品の説明をしていたと思うが、先生の説明はまるで記憶に無い。安部公房を中学や高校で理解するというのは・・・よっぽどの生徒でないと難しいんじゃないのとは思うのだけれど。自分は全く理解できなかった。

●浸透圧を利用した浄水器の話はどこかで一度読んだような、記憶の片隅に残っていた。映画の中でこの部分が出てきたとき記憶が呼び覚まされてハッとした。ひょっとしたら学校の図書館かなにかで「砂の女」も流し読みのようなことをしていたのかもしれないなぁ。随分昔のことになるから全く定かではないのだけれど。