『ゼロの焦点』(1961)

●1961年版『ゼロの焦点』を観ながら頭に浮かんでいたのは、同じ原作者松本清朝の作品とは言え、非常に『砂の器』に似通っているなということだった。

●制作スタッフを確認してみれば、監督 野村芳太郎、脚本 橋本忍山田洋次 と、『ゼロの焦点』と『砂の器』は全く同じ顔触れで製作されている。

松本清張には「あの『ゼロの焦点』のストーリーを骨として、そこにもっと血や肉を重厚に付け足していき、一本の大作『砂の器』を仕上げよう」という考えがあったのではないだろうか。それほどこの二作品は雰囲気が似通っている。

●他人には知られたくない自分の過去。その過去を知られれば苦しみの中から手に入れた今の地位も身分も名声も(それが虚偽のものでも)全てを失ってしまう。その恐れから自分の過去を知っている人間を殺してしまう。ストーリーの土台、背骨となっているものは『砂の器』(1974)と全く同じと言ってもいい。自分は『砂の器』を鑑賞し、その緻密なストーリーに、演出の巧みさに、映画としての面白さに感動したのだが、その『砂の器』は10数年前に作られていた『ゼロの焦点』のストーリーを土台にし、背景や時代設定、盛り付けるエピソード、登場人物などの構成を変え、再度練り直したものであったのだと強く感じた。

●1961年版『ゼロの焦点』は尺も95分と大作映画としては短め(自分としてはこのくらいがちょうどいいが)であり、映画としてはよくあるパターンだが全体の3分の2までは正直言ってあまり山も谷もメリハリもなく、たらたらとした退屈な作品である。話が急展開し動き出すのは禎子が探偵もどきの殺人の謎解きを開始するあたりからだ。その最後の3分の1にしてもいままでタラタラと進んできた話を一気呵成にラストに持っていくかのようなとにかく説明、説明、説明といった流れであり、映画、映像としてのダイナミックさや面白さというものではない。だらだらと話をつなげてきて、最後に登場人物が実はかくかくしかじかでしたのよ、と説明して終わるようでは映画として成立していないといってもいいだろう。(そういう映画はびっくりするほど沢山あるのだけれど)

●ラストの断崖のシーンは原作にはなく、脚本の段階で創作されたものであり、その後のサスペンス映画、ドラマには海辺の断崖絶壁が定番となったのだからこの点は流石と評するべきであろうが。能登で出会ってしまった殺人事件に関わる男女の三人がみな立川の米軍相手のパンパンに絡んでいたというのは少々ご都合良すぎの設定でもありこれはなんとかならなかったのと言いたくなる。

●わざとらしいまでにどんでん返し、ひっくり返して、またひっくり返すというのは戦後の娯楽文学があっちもこっちもとりいれた手法で、三浦綾子『氷点』などはもうやりすぎでしょうといいたくなる程のワザとらしいひっくり返しの連続であったが、この『ゼロの焦点』の最後のひっくり返し方もくどくはないが、わざとらしさはアリアリである。昔はこれでよかったのだろうなぁと思うが、今はこれじゃあだめだろうぁ。

●「あれが能登半島ですよ」と言われて禎子が汽車の窓から外を見ると次のシーンは空から空撮した雲が掛る能登半島となる。能登半島というものを観客に知らしめたかった意図は分かるがいきなり汽車の窓から空撮のシーンに移るのはかなりの違和感。これはシーンのつなげ方としておかしい。

●敗戦後の女性の生き方、生きていくためにしなければならなかったこと、その敗戦後の暗い影が人の人生にまだたっぷりと被さっているかのような時代状況。そういった悲しさ、苦しさというものは映画の中に滲んでいる。今にして、昔はこんなに大変だったのだなと映像を見ていてしみじみと思ってしまう作品ではある。

松本清朝の名作、橋本忍山田洋次という名脚本家、野村芳太郎という名監督・・・これだけの面子がそろっても、この位の映画にしかならなかったということは、正直この映画は決して優れた作品とは言えないし、なんとか佳作としてもいいかといった作品である。それでもこの作品が10数年後に『砂の器』という傑作に昇華する土台になったのであれば、その価値は十二分にあるともいえる。

●この1961年版『ゼロの焦点』を観ようと思ったのは、昨年2009年に松本清朝生誕100周年(去年は太宰治生誕100周年もあったが、そういった企画物の映画はどれもこれもなんだかなぁという状態である)として犬童一心監督で『ゼロの焦点』が映画化されたことによる。それがなかったら観ていなかったかもしれない。2009年版『ゼロの焦点』は先日の日本アカデミー賞にもノミネートはされていたが、どうにも観てみようという気が起らなかった。主役が広末涼子ということで、どう転んでもこれは明らかなキャスティングミス。またいつも通りのあの話し方、あの口の広げ方で演技をされたのでは第一級のサスペンス名作として名高い『ゼロの焦点』もその格を保てまいと感じていたからだ。広末に関することはネット上でもあれこれ書かれているのであえてこれ以上書かなくてもいいであろうが、ポスターにしても広末を真ん中に配して真っ赤な衣装を着た主演女優三人を並べたもので「これじゃあ中年男性目当ての中年女優のコスプレ映画か?」と思わせる様なものであったし。

●映画に必要なのはまずはしっかりとした脚本、そして何がなくてもキャスティングと言われるだけに、広末のキャスティングを聞いた時点で「これはパスだな」と決めてしまった。

●2009年版『ゼロの焦点』はあれこれ言われているが、今回1961年版を観た後で予告編を観てみたら、予告編は割と良い出来だ(広末は別)金の掛け方もたいしたものだし、果たしていったい2009年版はどうなっているのかな?と興味が湧いてきた。しばらくすればDVDもリリースされる。気が向いたら観てみることとしよう。たぶん、がっかりするのだろうなと予測はつくのだけれど。