『赤い橋の下のぬるい水』(2001)

今村昌平は映画史に残るエロ爺である。改めてこの作品を観て再認識。ほほ笑ましく、好ましきエロ爺であると思うが。

●今村監督の作品は、その絵、編集の巧さ、その下地となっている脚本の構成(巧さというのとはちょっと違うかもしれない)の成せる業で、観ていてつまらなくなるということが余りない。観ていて画面に、ストーリーにそこそこに引き寄せられる。そういったものを作り上げる監督としての力は確かなものであろうと認めるが・・・・この『赤い橋の下のぬるい水』という作品は、そこそこに面白くはあるけれど、一体何を思ってこの映画を作ったのか、何を表現しようとしていたのか? それが非常に不明瞭。

●「王侯貴族は美味いものを食って、やりまくることしか考えていなかった。民、百姓から絞れるだけ絞り取って、堕落した生活をする。それが昔から人間の理想の生活だったんだ。」「人間はみなスケベなんだよ。自分に思い切って正直に生きてみろ。人生なんて終わりよければそれでよし。」作中で語られる言葉は晩年の今村監督の人生、人間というものに対するとどのつまりの思いだったのであろう。

●失業して妻とも不協和音がながれ、家族というものも崩れていく・・・これもある種繰り返し表現されてきたパターン。もうステレオタイプと言えるストーリー。『トウキョウ・ソナタ』も似た用な話でもある。

●所々、このシーンは人生を比喩してるんだろうな、このシーンは人間の虚しさを表現しようとしてるんだろうな、このセリフは人間社会のくだらなさを言おうとしてるんだろうな・・・・と、観ていて思う部分が沢山あるのだが、それを一つ々取り上げて何かと結びつけたり、監督はこう言いたいんだろうな、なんて想像の糸を繋げていくのはなんとでも、どうとでもいくらでも出来るのだが、そんなことを全部考えていたらキリがない。映画を楽しめることもない。

今村昌平75歳にして長編作品としてはこれが最後、遺作になってしまったわけだが、色々と苦労して来た自分の人生の思いをあれこれとこの作品に詰め込みながらも、エロ爺としての本領発揮をし、おふざけ要素もたっぷり詰め込み、人間の本性なんてこんなもんさと割り切り、もうどうしょうもないよな社会批判も折り込み、この作品はあれもこれも今村昌平の人生75年の思いを切り貼りしたような映画である。

清水美砂は『稲村ジェーン』でデビューした頃からちょっとおばさん顔してたけど、歳をとったら若作りなおばさん顔がずっと変わりないからかえって中年女性の濃厚なエロス感を顔と体つきに漂わせている。こういう中年女性のちょっと美形でエロさを感じさせる役では清水美砂は一番かもしれない。『うなぎ』の時も結構激しいセックスシーンがあったが、この作品でのセックスシーンはエロいけれど官能的だとか激しいという感じではない。まあ鯨の潮吹きみたいに大量に水を吹き上げてセックスをしてるというのはギャグでしかないわけだから、いかに清水美砂の体つきや腰つきがエロくても、そこに官能的な刺激がそんなに漂ってこないのは仕方ないことか、エロさに反応するよりも笑ってしまうのだからこれでいいのだろう。それにしても今村昌平のスケベ-な部分全開という感じである。どこをどう間違ってこんなことを映画んしようと考えついたんだろう? この大量の水を放出する女はいったい何を表現しようとしていたのだろう? それはなんだかよく分からない。

カミオカンデニュートリノ岐阜県神岡鉱山 イタイイタイ病、カドミュウム、21世紀、男根信仰、アフリカ人、マラソン、失業・・・・・あれこれ無造作に詰め込みすぎ、こんなにあれこれ持ってきて2時間の映画に入れてどうするの?なんのため? わからないけど、なんだか手当たり次第そこらに転がっている面白そうな話題をかき集めてつないでるって感じもする。カミオカンデの中の純粋・・・女の体から放出される水・・・おしっことは違うからと言っているが・・・もれも無理に繋げすぎてるか? 結局この水の比喩は? わからん、あれやこれやと無理やり結びつけることもできなくはないが・・・それを考えても仕方あるまい。

●漁をしているシーンはいい。

●なんだかこの作品のわけのわからなさと最後の暴力シーンは北野たけし作品に非常に似ている。というかすっかり同じテイストである。

●映画としては、もうなんだかこれじゃあなぁという感じなのだが、エロくふざけた今村節だけは映画のなかに一杯詰め込まれている作品である。「人生なんてこの程度のもんさ、たいしたことなかったよ」そんな今村昌平のニヤついた顔が映像の中に浮かんでいるかのようである。

●まるで橋本忍『幻の湖』みたいな作品と言ってもよかろう。