『フィッシュストーリー』

伊坂幸太郎の小説を原作とし、中村義洋監督が監督をする。これは「アヒルと鴨のコインロッカー」が非常に良い出来の作品であったことから、今回も少なからぬ期待はしていた。流れてくる評判もなかなか良いという声が多く、それならばとも思ったのだが・・・何か少し期待外れ。殆ど破綻もなく、しっかりと展開は考えられており、そこそこに面白く話が綴られているのだから悪くは無いのだが、インパクトが無い。見終わって「あれ、こんなものか?」と思ってしまった。自分がもっとインパクトある何かを期待していたせいかもしれないが少し肩透かしを食らった感じがする。「巧い作りだけどなんだか物足りない、これじゃあなんだか少しそつない、ちょっとは美味しいけれど、まあそれなりの定食という感じ」と思ってしまった。期待度が高すぎたせいもあるのかもしれないが。

●過去の様々なエピソードが最後に収束して一つの感動的な結末を紡ぎ出す。そういったストーリーの映画、小説って最近かなり増えてきている。というか増えすぎ? このブログでは何度も取り上げているがやはり「マグノリア」が辺りから始まり、その後は「バニラスカイ」「クラッシュ」「バベル」等々、脚本、ストーリー構築の一つのスタイルとして多くの脚本家がこにスタイルにトライするようになって来ている。(「マグノリア」や「クラッシュ」は素晴らしい作品)そして、この映画の原作者である伊坂幸太郎の小説はまさにこの時間、立場、環境など異なる人や物事が最後にそれぞれ絡み合って一つの結果を作り出すというスタイルだ。それこそが伊坂ワールドと言われる特徴でもあり、最後の最後にパーッと全ての種明かしがされるが如くストーリーがサーっと開けていくことが快感であり、読後の爽快感をもたらすものでもある。伊坂作品の人気はそういったところにも起因しているであろう。

●邦画でも「陰日向に咲く」(これはダメダメだったが)そして「アヒルと鴨のコインロッカー」ではこの脚本構成のスタイルが採られた。たぶん他にも観ていないような作品で似たような脚本構成のスタイルに挑戦しているものは多々あることであろう。言って見れば今の脚本のトレンドともいえる。

●こういうタイプの作品は、小説家、脚本家にしてみれば、ストーリーの破綻がないしっかりとした構成力が要求されるし、個々をコントロールしつつそれがまとまった一つの作品として完成させなければならず、事の他なかなか大変だが、それは腕の見せ所と言ってもいいし、脚本家が自分の力量、構成力をアピールできるからやりがいもあるだろう。だからこそ最近そういった作品が増えてきたのかもしれない。

●だが、複雑なストーリーを抱えつつも、作品として輝くには構成要因となる一つ一つのストーリーに面白さが必要だ。そして更に、一番大事なのは、その個別のストーリーが段々と近づき、まとまっていきラストで一つの物語として本流に”繋がる”その部分、その種明かしである。

●伏線を様々に張って、それが徐々に寄せ集まってきて、最後にシュッっと一つの線にまとまる、そのまとまる部分に如何に驚きをもった仕掛けを凝らし、ストーリーを凝らし、巧妙に仕組まれたストーリーを観客に披露できるかが重要。その”繋がり”の部分があからさまだったり、途中からミエミエだったり、なんだよれ?というようなスカスカな話だと観客はそんなもんかよと一気にシラケルし、作品全体が最後の最後で全く詰まらなくなる。

●この映画、先に書いたように充分に面白かったし、なかなかの出来なのではあるが、なにか観終わってしっくり来ないものを感じた。それが何なのだろうなぁとベッドに寝転がりながら考えた。そしてパンフに書かれた「発売当時だれにも聞かれなかった曲が、時空を超えて人々をつなぎ、世界を救う!」というキャッチコピーを見たとき・・・あ、これだな!と思った。

●1973年から2012年までのいくつかのストーリーが最後に繋がるのだけれど、逆鱗の歌った「フィッシュストーリー」という歌はどこで繋がってたんだろう?あの歌がなんで惑星衝突を回避する要因になったのだろう?そこのところが頭に浮かんでこないのだ。だからなんだか「フィッシュストーリー」という歌と惑星衝突がまるで別個のストーリーとして頭の中に存在し、違和感を生じさせているのだ。消化不良な感じはここにある。

●話を自分の中で整理してみようと紙とペンを持ち出して時代の異なるいくつかのストーリーとそれがラストに”繋がる”部分をはっきりさせてみた。


■1982年 気の弱い大学生雅史、合コンに行く車の中、「フィッシュストーリー」の無音部分に女性の悲鳴があるという噂〕
                      ↓
 〔合コンの帰り、カセットが取り出せなくなり、暗い道でちょうどその無音部分が・・・・すると女性の悲鳴が・・・〕
                      ↓
 〔雅史はレイプ魔に襲われていた女性を助ける〕→〔その女性と結婚〕→〔子供誕生〕→〔子供を強く育て正義の味方にしようとする〕

■〔2009年 修学旅行の女子学生を乗せたフェリー→寝過ごして一人取り残される女子高生麻美→シージャック〕
                      ↓
 〔船でコックをしていた男が正義の味方となってシージャック犯をやっつける→女子高生は助かる〕
                      ↓
 〔シージャック犯をやっつけ麻美らを救ったのは雅史の子供、正義の味方に育てようと鍛えていた子供だった〕


■〔2012年 巨大彗星が地球に近付く→それを爆破するためロケットが打ち上げられる→彗星を爆破したのは難しい軌道計算をした女性 麻美だった〕

●なるほど繋がっている、雅史のエピソードから始まって、雅史の子供が生まれ、正義の味方となり、そして助けた麻美がラストでは地球を救うキーパーソンになったんだと、わくわくするくらい繋がっている。

●だけど、逆鱗の歌う「フィッシュストーリー」がどうして地球を救ったんだ? この部分がやはり繋がらない。作品の中では逆鱗のバンドのこと、メンバーのことが、青春映画に思えるほどにかなり比重をおいて語られていのに「フィッシュストーリー」という曲が地球を救うことにどう繋がったのかが見えない。他のエピソードはきっちりとラストに繋がっていたのに。

●作品の宣伝PR「フィッシュストーリー」という曲が時空を超えて世界を救う!としているのに、全然繋がって無いではないか??

●しかしだ、じっくりプロットを紙に書いて検証し繋ぎ目を確認していったら、ようやく歌と地球を救う部分が繋がる所が分かった。なるほどと。「アヒルと鴨のコインロッカー」の時もそうだったけれど、このフィッシュストーリーも観客に対してリピーター割引をやっている。ん、確かにしっかり見ていないと繋ぎ目を見落としてしまうし、それを見落とすと作品自体が、なんだこれ?と思えるものになってしまうかもしれない。繋ぎ目はあからさまではダメだけど、バレバレでもダメ。だけど最後にははっきり分からなくちゃそれもダメ。この映画でのフィッシュストーリーという曲と、地球の滅亡を食い止める”繋ぎ目”は結構微妙な繋がりしかない。自分にはその繋ぎ目はかなり淡くて劇場でははっきりわからなかった。だが、プロットを検証したことで分かったのは、その繋ぎ目が間接的でかなり遠くに離れた繋ぎ目になっているということだった。

●この映画で一番大切な”繋ぎ目”は、最後の最後にレコーディングした曲の無音部分。逆鱗というバンドが、今まで全然売れなくて、解散することになって、もう最後のレコーディングだというのに、プロデューサーは自分達の思いとは正反対の事をばかり言って、自分達が歌いたい歌を、自分達が歌いたいように歌わせてはくれない。ずっと皆で、このバンドで頑張ってきたのに、何もかも全然うまく行かないままここまで来てしまった。そしてバンドはこのレコーディングを最後に解散する。そんな思い通りにならない不甲斐なさ、苛立たしさ、不満が、最後の最後で「フィッシュストーリー」という曲をバンドが演奏し、歌っているとき、ボーカルの吾郎が思わず、間奏のとき、今の自分達のおかれた状況に対する不満を、やるせない自分の思いを愚痴るように語ってしまう。

「なあ、この曲はちゃんと誰かに届いてるのかよ?」と。

一発録音の約束だったし、その愚痴の部分は録り直しはせず、音を消して無音にしてレコードに収録された。その無音の部分が、後々にオカルト的な噂を生じさせ「無音部分に女性の叫び声が聞こえる呪いのレコード」として一部マニアに知られることとなる。バンドは殆ど誰にも知られず、レコードも全く売れなかったというのに。

●そして、その”無音部分”が時を経て地球を救うきっかけとなる・・・・

■〔1973年 逆鱗の最終録音→「フィッシュストーリー」の間奏部分〕
             ↓
〔ボーカルの五郎が愚痴るように自分達の置かれた状況に対する不満を語る。〕
             ↓
〔愚痴が入った部分は音を消され無音のままレコードに収録される。〕
             ↓

〔無音部分に女性の悲鳴が聞こえるという伝説になる〕

●この赤の部分を上の青の部分の一番最初にくっつければ、ストーリーは全部繋がった。そう、これで全部が繋がった。でもこうして全部のストーリーを繋いでみたら「フィッシュストーリー」という”曲”が、その”音楽”とか”音楽性”が!! ”歌詞のメッセージ”が!!・・・時空を超えて人々を繋ぎ、地球を救ったのではないということが炙り出されてしまった。

●逆鱗というバンドの売れない悔しさ、思った演奏をさせてもらえないいらだち、自分達の思いが認められない、伝わらない悲しみ、やるせない思い。そういったものが煮詰まってボイルして、ボーカルの吾郎が曲の間奏部分でしゃべってしまった愚痴となったことは確かだ。そこまではイイのだ。そんな彼らの青春の苛立ち、悔しさ、熱さが、やるせなさが時を越えて誰かに届いて、それが地球を救うきっかけとなったというのであれば、素晴らしくイイ映画のストーリーだ。文句無しだ!

だが、フィッシュストーリーという”曲”が、その”音楽性””メッセージ”が地球を救うきっかけになったのではないのだ。雅史が、襲われている女性を助けるきっかけとなり、その後地球を救うところまで繋がっていく一番大切なこの物語のキーは、吐き出した思いを消されてしまったレコードの中の ”無音部分”なのであり、逆鱗というバンドの、吾郎の思いではないのだ。その思いが昂ぶった結果、意図せずに出来た無音部分なのであるけれど、それは「フィッシュストーリー」という曲の歌詞でもなく、唄われていた曲の良さでもなく、逆鱗というバンドの情熱でも苦悩でもなく、この映画の中で狂おしいほど描かれていたやるせなさでもなく・・・・その思いが”消されて出来た!!”⇒⇒⇒”無音部分”!なのだ。

「フィッシュストーリー」という曲が、そこに込められていた彼らの思いが・・・時空を隔てて地球を救ったのでは・・・・・・・ないのだ。

☆逆鱗の、彼らの思いが、悔しさが、やるせなさが、時を経て雅史に雅史に伝わったのでもなく、世界を救うラストに繋がったのでも無い。彼らの思いや、青春の苛立ちや、悔しさや、やるせなさ。そういった彼らの”青春の滾り”はプロデューサーに消されて、誰にも聞くことの出来ない無音部分という別の形となった。

雅史が襲われている女性を救うという、地球を救きっかけを生じさせたものは、逆鱗というバンドの思いではなく、フィッシュストーリーという曲そのものでもなく、・・・・・彼らの思いが消された後にその場所に纏わり付いたオカルト的な噂なのだ。

●逆鱗というバンドとフィッシュストーリーという曲は”無音部分”が入った曲という”入れ物”としてラストで地球を救うという部分に関わってはいるけれど、そこに込められていた彼らの”思い”は、どこにも、誰にも伝わらず、どこにも、誰にも繋がっていないのだ。

●映画を解説している文章にはこんなものがある。

「発売当時誰にも聞かれなかった曲が、時空を越えて人々をつなぎ、世界を救う!」・・・違う!

曲が人々を繋いではいないんだ。繋いだのは彼らの曲そのものではなく、彼らの思いを消した無音部分とオカルト的な噂なのだ。(悲しいけれど)

「売れないロックバンドが最後のレコーディングで叫んだ声が時空を越えて奇蹟を起こす。」・・・・違う!

彼らの青春の熱さ、苛立ち、悔しさは、やるせなさ、そういった彼らの声は、誰にも伝わっていないのだ、伝わらなかったのだ。

「自分達の信じる音楽がいつか誰かに届き、この世界を救うと信じて」・・・・そう願っていたのだろうけど!

彼らの音楽は、曲は、その歌詞は、言葉は、最後まで誰にも伝わっていない。無音部分のように彼らの思いは堰き止められたままなのだ・・・・・・・。


●フィッシュストーリーという曲にある消された無音部分に、時が流れて付きまとったオカルト的な都市伝説的な噂こそが、雅史が結婚相手となる女性を救ういきっかけとなったのであり、逆鱗というバンドとフィッシュストーリーという曲自体は、無音部分を抱えた入れ物でしかなく、雅史の行動を引き起こした直接原因ではない。辿っていけば結び付く事は確かなのだけれど、逆鱗というバンドとフィッシュストーリーという曲に込められた熱さや思いは・・・・雅史の行動の起因にはなってはいない。
曲それ自体が地球を救う原因となったのではなく、この曲の間奏部分が無音のままレコードに収録されたこと、そこに後に纏わり付いた都市伝説、オカルト趣味の噂こそが雅史に行動を起こさせ、巡り巡って地球を救う原因となったというのがこの映画に描かれてしまった繋がりなのだ。
(非常に見えにくいけれど、この部分はこの映画の脚本の大きな欠点、ミスと言えるであろう)

●この映画を観た後に感じたなにか釈然としない、すっきりしない違和感、ストンと納得できないモヤモヤした気持ちの原因はこの部分にあった。


●逆鱗のラストレコーディングまでに至る物語とそのシーンは物凄く良く出来ていて、そこだけでバンド物の青春映画として切り取っても充分素晴らしいものになりそうなくらいの中身だ。だけど、あれだけ熱く、音楽に無鉄砲に入れ込んでいた逆鱗のメンバーの思いは、堰き止められ、宙を彷徨い、結局彼らの歌は誰にも届くことなく、その曲も、無音部分に女性の叫び声が聞こえるという噂の元となった”無音部分”が入った”入れ物”としてしか認知されなかったのだ・・・・・・。

●この映画の中には二つの流れがある。

A)逆鱗というバンド→売れない、苛立ち→ラストレコーディング→フィッシュストーリーという曲→間奏部分での叫び→無音部分にされる。

B)フィッシュストーリーの無音部分に叫び声の噂→雅史が女性を救う→子供誕生→シージャック→女子高生を救う→女子高生が地球を救う。

A)のストーリーは青春もので熱く情熱的で非常にいい。
B)のストーリーは巧妙洒脱で実にニクイ造りでありそして面白い。この二つのストーリーを繋ぐのは”無音部分”ではあるのだけれど、この二つのストーリーは一つの流れにはならない。
A)の川が堰き止められてこぼれた水がB)の川の源流を作ったのだけれど、A)とB)の川は合流して一つの本流となることはなく、それぞれ別の川として異なった流れを走っている。

二つの大きな流れは A)からB)に一気通貫してはいないのだ。そしてさらにA)の川の流れは激しく昂ぶっていたのだけれど、堰き止められてそのまま終わってしまっているのだ。


●逆鱗というバンドの、彼らの思いは、曲は・・・誰の心にも届かなかった。誰かの心を揺さぶることもなく、地球を救うことにも直接的には繋がらなかった。彼らの思いは、この映画の本筋となるストーリーとは別の所を流れ、そして堰き止められたままなのだ。吾郎の発した叫びはどこにも飛んで行かず、どこにも辿りつかず、堰き止められたまま燻り沈んでしまっている。それが悲しい。映画の出来は憎たらしいくらいにイイ、だからこそ余計に残念に感じてしまうのだ。

「なあ、この曲はちゃんと誰かに届いてるのかよ?」最後の演奏で吾郎がつぶやいたいたたまれない、やるせない気持ちが、逆鱗というバンドの思いが、直接に雅史の心に、雅史ではなくても、誰かの心に響いて、それが地球を救うきっかけになったという流れであれば話はもっとずっと素晴らしいものになっていたはずだ。きっともっともっと爽やかでもっともっと感動的な映画になっていたはずだ。そう思う、だからそうではないことが残念だ。

●この映画、本当に細かいところまで意識を張り巡らせ、仕込みをしているのは凄いなと思う。セリフ、シーン、モノ・・・色んな部分にたくさんの伏線が張ってあり、仕掛けがしてあり、それをいちいち確認していくのも大変だし、実際一回の鑑賞で見えなかったらそれはそこまでである。二回観なきゃ分からないという映画は半分失敗でしょうとも言える。それでも、分かりにくい伏線の部分のマイナスを除いたとしても逆鱗を巡る売れないけど頑張り続ける熱を放射しつづける青春時代のバンドのストーリーはその部分だけでも映画として充分の面白さと味わいはあったし、バンドの部分以外のストーリーは実に巧妙であり、非常に面白くそして爽やかでもある。

●この文章は何度も書き直しをした。それほど自分の心に引っかかる部分を持っている作品であるとも言える。逆鱗というバンドの思いと、フィッシュストーリーという曲がもっと直接的に、はっきりと地球を救うことに繋がっていたのであれば、もっともっとこの映画を賞賛していたと思う。そこが残念であり、悲しくもある。でもそこを差し引いても充分に面白い要素が詰め込まれた映画であることも確かだ。

●彼らの思いが何らかの形で伝わり、繋がっていたのなら、彼らは報われたと受け取れるのだけれど、このプロットでは最終的に彼らはの思いはどこにも伝わらなかったし、結局何も起こせなかったということになってしまっている。そこがこの映画の大きなミスであり失点である・・・・。
                     
●売れないバンドと彗星の衝突を結びつけるという突飛で飛躍したストーリーはいかにも村上春樹的であり、またフィッツジェラルド的臭いを感じさせる部分もあり、そこは自分の好みではないのだけれど。まあフィッシュストーリー=法螺話なのだからいいのか?

●宣伝用の画像を見たときは「アイデン&ティティ」や「ロッカーズ」のような音楽バンド映画かと思った。(バンドの部分は良い出来だった)

濱田岳田村圭生など「アヒルと鴨」の顔ぶれは出ているだけで面白い。江口のりこは「ハッピーフライト」での無表情な管制官の役が強烈だったが、今回も冷たく鋭い目つきで、あまりセリフもない脇役なのに相変わらず強烈な存在感をしてしている。居るだけで強烈な存在感ということでは鋭い江口のりこ、ほんわかぼんやりの平岩紙が双璧になるだろうなぁ。

高橋真唯も強い瞳で強烈な印象。もう少しシーンが多かったら多部未華子を食っちゃってしまってたかも? そしてその多部未華子だが、これまた大きな目で、しかも今回はちょっと抜けたような役で、最後には地球を救う難計算をして、そして宇宙服のままグースカ寝てるなんて、そんな大計算をするようなイメージじゃないけれど、そのギャップがまた良い感じであった。まあフィッシュストーリー、法螺話だし。ラストで宇宙服を着たまま寝ている姿と「ごめんなさい」は可笑しく、しかも爽やかであった。

●それにしても細かな伏線の張り方、仕掛けは、オマージュなんかは多すぎてもう追いかけきれないね。自分はそこまで細かく作品を見尽くすということはしないけれど、ある種の人には種を見つけるだけでもこの映画は相当に手応えがあって面白いであろう。

●今回の作品は脚本が林民生となっている。「アヒルと鴨のコインロッカー」の小説をあれだけ素晴らしく脚本化し、そして映画として仕上げた中村義洋監督なのだから、今回の「フイッシュストーリー」も中村監督が脚本も仕上げているものだとばかり思っていた。「ジェネラル・ルージュの凱旋」に忙しくて「フィッシュストーリー」の脚本まで手が回らなかった?最初そんな風に邪推したのだけれど「ルート225」の時に組んだ林民生に肩を貸し、肩を貸してもらったということかな? 

マルティン・ルターの言葉で「明日世界が滅びるとしても、今日君は林檎の木を植える」が使われていた。日本でこの言葉を名言として広めたのは開高健であろう。伊坂幸太郎村上春樹的であり、村上春樹の影響を強く受け、そのスタイルを模倣(良い意味で)しているとも言われるが、その村上春樹チルドレンの伊坂幸太郎が作品中でこの言葉を使っているのは面白い。開高健芥川賞選考委員であった頃、その当時からかなり売れっ子であった村上春樹の作品を高くは評価していなかった。村上春樹の作品は芥川賞候補作品には上がっていたものの、芥川賞に選ばれることはなかった。開高健だけが賞を決められるわけではないのだが、その恨みか因縁かどうかしらぬが村上春樹は「ダンス・ダンス・ダンス」の中でボクという登場人物の言葉を使って、実名は出さぬまでも明らかに開高健の作品とそのスタイルを批判、揶揄していた。そして村上チルドレンともいわれる伊坂作品の映画で、この開高健がよく色紙などに書いていた言葉が使われるというのもある種の繋がり、因縁?か?
追記:言葉の出典に関してはルターではないという説もある模様。未見だが「感染列島」でもこの言葉は使われていたということだ。池澤夏樹も著書「楽しい週末」でこの言葉を使い現代の問題に言及している。(2009.7.11)

●「なあ、この曲はちゃんと誰かに届いてるのかよ?」若さの情熱、疾走、そして壁に突き当たり悩み、もがき、苛立ち、悲しくなる、そんな思い。誰しもがきっと、必ず吾郎や逆鱗のバンドのメンバーと同じような切なさや、やるせなさを自分と自分を取り巻く社会の状況に対して感じたことがあるであろう。この映画にはミステリー、サスペンス、巧妙なパズルの謎解きといった要素と、バンドのメンバーの溢れんばかりの情熱の部分が一緒に折り込まれている。洒脱な部分と汗臭い青春物の部分が組み合わさっているからいい感じの映画になっているのかもしれないけれど、バンドの様子をこれだけ熱く描けるのだから、中村監督にはもっと単純で情熱だけで出来ているような熱い青春ものを撮ってもらってもいいのが出来るんじゃないかな?

●まあそれにしてもあれこれ一杯詰め込まれた映画である。そしてまあ、気がついたらずいぶん沢山書いてしまっている。これは「リリイ・シュシュのすべて」の長さを越えてこのブログで最長の批評になってしまった。検索エンジンで辿り着いてここを見た人も、この文字量じゃうんざりして全部読もうなどとは思わなくなるか?(笑)

●もう一回観てもいいかな? 

●4月19日追記
原作小説を読んだ。
登場人物それぞれのストーリーはほぼ並列に置かれ、どこかに荷重されているわけでもない。どちらかといえば世界を救った橘という女性と、ハイジャック犯を倒して、結果彼女を救うこととなった瀬川の話が一番の真ん中かな?原作上では特にバンドの部分、フィッシュストーリーという音楽の部分に比重が置かれているわけでもなく、それも時代を超えて絡み合うストーリーの一つの要素として配置されている。

●映画が原作と違うのは、逆鱗というバンドとフィッシュストーリーという曲に焦点を合わせ、荷重を掛けて描いているということ。映画化にあたっての脚本の段階でバンドの部分を大いに脚色し、全体ストーリーの中心部分に据えているということ。そして映画の宣伝PRも「フィッシュストーリーという曲が時空を超えて世界を救う」としている。しかしだ、バンドの部分を強く描いてはいるもののの、ベースとなる全体の構成は原作に則っり、各々の係わり合いも原作に準じている・・・・原作の中では並列的に扱われていた一つ一つのエピソードのうち、バンドの部分を映画では強調して脚色をしたものの、その絡み合いという部分ではバンド、雅史、船のコック、女子高生の位置関係は並列なのだ。

●どれか突出したものがあるわけではなく、並列な位置にあるエピソードがなぜか時を越えて絡み合ったという小説なのに、映画はバンドの部分を突出させてしまった。そして、その並列的な係わり合いが結果的に世界を救うという土台で話は進むのに、バンドを強調しすぎて、そのバンドの音楽が世界を救うとやってしまった。

●だから、ベースとして流れているストーリーとの構成上の違和感が生まれたのだ。全体のストーリーの中ではフィッシュストーリーという曲も、逆鱗というバンドも、無音部分も全体を作る一要素として存在しているのに「フィッシュストーリーという曲が世界を救う」「無音部分が巡り巡って世界をすくう」という言葉まで付けて、それがすべての起因で、原因で一番大事なものというようにしてしまった。これが間違いの原因である。

●何度も書いているけれど、ストーリーをしっかり追いかけると、逆鱗というバンドも、その情熱も、フィッシュストーリーという曲も、無音部分も、そのどれかが強く作用してラストに影響を及ぼしているのではないのだから、それなのに「無音部分が!」「フィッシュストーリーという曲が!」と頭を並べているはずの要素をやたら強調してしまっているから、なんだか言ってることが違うじゃないの?という違和感を生み出しているのだな。

●この辺りは脚色のちょっとしたミス、独走ともいえるし、映画のキャッコピー、宣伝のミスとも言えるな。

●小説の後書きにはこんなことが書いてあった「長い時間と場所を漂う物語を作りたい」と・・・そう、小説は色々な話がふんわかりんと漂い、それがいつのまにかとても大事なことに結びつくというもっとアンニュイなストーリなのだ。どこかが強く強調されてはいない、ふわふわした話が小説の持ち味になっているのだ・・・・映画はそこを変えてしまっているけれど。

●面白い作品に仕上がっていることは間違いないのだけれど。