『イタズ -熊-』(1987)

●古い作品ばかり見直している。金儲けがが何よりの優先事項だとばかりに堂々まかりとおる最近の邦画を観ていると、決して興行的には成功せず、今となっては知る人も少ないような古い作品には、金儲けだけではない映画を作る、思いを伝えるという骨太の魂が脈々と息づいていることをひしと感じるからだ。ビジネスなのだから儲からなくては成り立たない、だが、古い邦画には今の邦画が見失っている魂が、情熱が確実にある。今の邦画はそれをなくしてしまったのではなく、敢えてそれを無視しようとしたところで存在しようとしている。

●この映画、様々なお国のお墨付きを冠している。「文部省特選、文部大臣賞受賞、厚生省中央児童福祉審議会推薦、地域団体多数推薦、他諸々」その多くは自ら申請して、認可されて受けたお墨付きであろうが、それにしても随分と並べ立てたものだ。その昔、小学校や中学校位の頃は映画観賞会なんていうものがあって、広い体育館や講堂にズラリ並んで座らされ、こういった文部省推薦なんてゆう映画を教育の一つとして見せられた時代があった。きっとこの映画もそう言った類いの扱われかたをされていたであろう。

●しかし、こういった東北の狩人であるマタギの映画、その貧乏な生活、熊を追って雪山を何日も泊まり歩く姿を見ても、小学生や中学生ではさしてスクリーンに映し出されるものを理解することは出来ないであろう。子熊を育て、山に帰し、その熊が成長して再びマタギの家族の元に現れるというところは話しとしては子供にも響く物が有るかもしれないが。

●確かに、かって日本にあった風習、民族文化、自然との凄烈な戦い、その中での生活、そう言ったものをこうして映像化することは意味のあることだと思う。しかし何故か一昔、二昔前はこう言った作品を学校教育のなかで無理矢理子供に観せていた。少年、少女と小動物の触れ合い、別れなんていうのは子供向け映画の典型的なパターンではあるが、この映画をまだ小学生や中学生が観て、それが20年も前のことであったとしても、子供たちはこの映画に何を思ったのだろう? ある一部分のシーン、描写だけを思い出に残して、良かった、感動したなどと言うかもしれない。だが、この映画そのものはもっと、ずっと大人向けの映画であり、人生の年輪を重ねてからでなくては良さを噛みしめられない作品だろう。

●東北の自然の厳しさ、貧しさ、そのなかで生きてきたマタギという一つの風習、文化、特殊な職業。いまは廃れてしまったその姿に何かを感じることが出来るのは、やはり人として苦労辛酸も舐めつつ人生を送ってきて、マタギの生き方に心を揺らす事が出来るそれ相応の歳となった大人ではないのだろうか? 

●この映画、悪くはないのだが、子供、親子向けにPRを振りすぎた嫌いが有る。もっとまっとうに、正真正銘の真摯な自然とそこに関わるマタギを描いた映画として打ちだしたなら、今でもそこそこの価値ある古き良き日本の映画となっていたと思うのだが。20年も前の映画なのに、家族、子供、学校教育向けとして興行を稼ごうとした片鱗が見えているのが、なにか寂しい。

●そもそもこの映画は子供よりも、大人が見て感じるべき映画だ。監督である後藤俊夫は1982年に「マタギ」というもっと真剣な映画を撮っている。(これもお国のお墨付きは多かったようだが)この「マタギ」の柳の下の2匹目のどじょうを狙って日本テレビ電通が企画して製作したのが「イタズ-熊-」だった。家族、子供、学校向けとして宣伝すればそこそこの利益は出せるだろうと踏んだのであろう。しかしそれは監督の本意ではなかっだろう。それはこの映画を観れば分る。無理に子供向け親子向けに挿入したのだろうと思われるシーンがあれこれれあるが、全体の映像は全くもって子供向けなどではない。「マタギ」と同じく自然の本当の厳しさの中で生きる人間に向けられた真摯な眼こそがこの映画の根本にある。

●後藤監督が描いた東北の本当に厳しい冬の姿、その厳しい自然の中で、木を切り、炭を作り、熊を狩り、自然の中から得たものを売ることで生活の糧を得る生活、貧しくも、厳しくも質実に生活していくマタギとその家族の姿。それだけでは食べていけず町の工場に働きに出る母親。それは観ているだけでも本当に厳しく苦しい生活なのだろうとは思うのだけれど、今の時代、暴走した資本主義の中で日本人が失ってきた、捨ててきた、目を逸らし筵の影に押し込め見えないように、見ないようにしてきた大事ななにかが、そこには確実に存在している。そんな気がする。人は必要だったものを切り捨て、不必要なものばかりを身に纏い、集め贖うようになってしまった。後藤監督はそのことを子供よりも大人にこそ知らしめたかったのではないか?そう思うのだ。

●今から見れば貧困とも言える山の暮らし、だが、そんな中で、そんなことを気にもせずに伸び伸びと目を輝かせて生きる少年の姿。ゲーム、インターネット、オタク、暴力、萌え、アニメ・・・・そんなことに取り囲まれ、とり憑かれた今の子供と、どちらが人間として幸せか。それは明らかなのだろうけれど。

●20年前、この映画を見た子供達はどんな印象を持ったのだろう? 20年もの年が経った今、もし学校の映画教室でこの映画を上映したとしたら(たぶんそういうことはもうないだろうけれど)こういった映画を子供達はどう見るだろう? 詰まらないくだらない、面白くない、馬鹿みたい・・・もし今この映画を都会で子供達に見せたりしたら、そんな言葉ばかりが返ってきそうだ。

●主役となる子供の成長に合わせて一年半の歳月を掛けて撮影は行われたという。東北の本当の冬の厳しさの中で出演者もその厳しさを体感しながら撮影は続けられたであろう。調教されたものであろうが、本当の熊を使った撮影も相当の厳しさ、危険を伴うものであったであろう。そういった部分からみても、今の邦画の製作体制、その仕組みの上では、もうこういった本腰の作品は出来ない、作れない、作るということもしないであろう。この映画もかって日本映画が映画そのものの本質を追いかけていた時代だからこそ出来た一作なのだと思う。今の日本の映画界ではこんな作品は作ることはできない、生まれてくることもないであろう。

●あの宗教団体の合同結婚式以降、殆ど見ることも話を聞くこともなくなった桜田淳子だが、元々秋田出身ということもあり、苦しい生活の中で頑張って生きていこうとする母親の役を見事に演じきっている。桜田淳子がアイドル歌手から女優に転進し、もし今でも女優業を続けていたら、きっと凄い日本の名女優になっていたのではないかと思われる。

後藤俊夫は監督デビュー以降一貫して自然、動物、人間というったテーマで映画を作ってきている。今は故郷である信州に戻り活動をしているということだ。暫く表立って作品を発表するということもなかったのだが、2007年に地元伊那谷をロケ地として「Beauty うつくしいもの」という農村歌舞伎を取り上げた作品を発表した。http://beautyweb.jp/index.htm
「Beauty」は昨年の東京国際映画祭「日本映画・ある視点」部門に出品され、同時に後藤監督の代表作とも言える「マタギ」が東京国際映画祭で特別上映されたという。

●TV絡み、商業主義、拝金主義丸出しの今の映画界の中で、後藤俊夫のような人が信州の田舎で活動を続け、かって邦画の世界に満ちていたような心と信念のある映画を作り続けているというのなら、それは非常に素晴らしいことだ。今そういうことを続けられる状況は非常に少ない。出来る人も数少ない。こういった人にこそ、地道であってももっともっと頑張ってもらいたいと願う。

●最近は気持ちが全く新作映画に向かなくて、公開される映画で観て見ようという気持ちになるものがまるでない状態だ。ずっと映画を観続けているとこういう時期がたまに訪れるものだが、このブログ自体も3月は旧作のことを少し書いただけで停滞している。久しぶりにスクリーンで観る一本として丁度東京での公開が行われていることでもあるし、「Beauty」を観にいってみようかと考えている。ひょっとしたらこの一本を観て、また映画を観たいと思うようになるかもしれない。