『闇の子供たち』

●映画は芸術家か? エンターテイメントか? よく言われる問いだが、そのどちらにも分類出来ない作品もある。それが「闇の子供たち」の様な作品である。何か区分けするとするならば”社会派”の映画とでも呼ばれるのであろうが、この作品のように現代の病巣を突く内容のものを、ああだこうだと言うことは難しいし、区分けしたからと言って何の意味も持たない。在るのは突きつけられた事実だけなのだから。

●形や主張がどうあれ、これは”映画”なのだから、映画としての粗や破綻を指摘することは出来る。だが、こう言った作品になると、そういう映画的な指摘が揶揄され「そんなことはどうでもいいじゃないか、この作品の訴えていることが大事じゃないか」なんて、声を張り上げる人が相当数居ると思う。

●だから、こういった作品は書くことが難しい。映画的な事を書いていれば、それは技法や技術の指摘だからいつもと同じで、書くのも苦痛は伴わない。だが、中身のこととなれば、それは自分に向かっても突きつけられている、この世の中の暗部なんだから・・・お前はどう考えるんだ?と自分に問いかけないわけにはいかない。「大いなる陰謀」でR.レッドフォードは「君達はどうするんだね?」と問い掛けをしていた。そして投票で意志を示せとエンドロールで語っていた。「闇の子供たち」を見た後、自分は「これは、きっと、この通りの事実が存在しているのだろうな」と素直に納得していた。そういうことがこの世の中で行われているだろうということは、日常では目にすることはなくても、歳を重ねれば自ずと知るようになる。ただ、自分には何も出来ない。やるべきことは沢山ある。政治の腐敗や、汚職、税金の無駄遣いをテレビのニュースでは繰り返し指摘し、表に焙りだしてはいるけれど、そこに怒りを感じても、自分になにが出来る? 酒を飲んだとき、仲間と「今の世の中は間違っている、政治家はどうしょうもない」と言うだけだ。じゃあ、何か出来ることから始めよう。そう思っても、それを生真面目に突き通す程の純粋さはない。自分も諦めてしまった一人なのだという虚無感が訪れるだけだ。

●本当にこういう作品の事は、文章にしにくい。偽善の皮を何重にも被って、真っ当なことを書き「こんな事が実際に在るということに怒りを覚える」なんて書く気にはなれない。その後には、怒りを覚えて、それでお前はどうするんだ?という自問、自責が返ってくるからだ。

●この映画はタイでの子供たちの人身売買、そこにうごめくブローカー、幼児趣味を持つ異常者などをリアルに写しだしている。秋葉原などでアダルトDVDや、エロアニメを山のように抱えて買っている人物を見れば、こういう幼児性愛者、幼児強姦願望者などは割とそこらにいくらでも居るだろうと思えてくる。そういった人間が日本では出来ない欲望のはけ口をタイなどに求め、それを供給する側も存在する。これは書いていてどうにもならない泥沼に落ちていく気持ちになる。

●映画の中では幼い少女や少年に自分のイチモツを銜えさせ、その状況をノートPCで日本に向かって報告するというおぞましい日本人の性癖異常者が出てくる。またブヨブヨに太って肉が垂れ下がった白人が少年を犯すシーンなど、確かに嗚咽感を覚えるような生々しい部分が表現されている。

●こういった部分は映画として見ていて気持ちの良いものではない。しかしその気持ち悪さこそを監督は表現したのだという。異常な性癖者がこの映画を見て喜ぶような表現は排除したという。

●「闇の子供たち」のHPに人身売買の実情に詳しいという恵泉女学園大学の斉藤百合子さんのコメントが載っている。このコメントを読んで、監督やプロデューサーがこの映画を作るに当ってどんな配慮をしたか、しなければいけなかったかが如実に分る。この問題をセンセーショナルに取り扱えば、逆に現代はこうした性犯罪行為に感心を抱いて同じような行動を起す輩を生みだすという。なるほど、その通りの世の中だ。センセーショナルな話題はそれだけセンシティブでもある。

●斉藤百合子さんのコメントはHPやパンフに掲載されているが、映画を見終えて、このコメントを読むと、映画の重さは何倍にもなって心にのし掛かってくるようだ。

-「闇の子供たち」HPより斉藤百合子さんのインタビューを部分引用させて頂く-

「問題をセンセーショナルに扱うことは被害者を憐れみ、同情し、「無力」で「無垢」なイメージを作り上げる危険性がある。加害者に対峙するより、「非力な」被害者を救済することに、マスコミをはじめとして社会的関心が集まるかもしれないが、センセーショナルに取り上げ続けなければ、社会的関心は薄れてしまう。また、センセーショナルに取り上げれば取り上げるほど、現代は、こうした犯罪行為に逆に感心を抱いて行動する輩が発生する。これまで少女が誘拐された末に殺害された事件等を見ていても、事件報道に触発されて同じような犯罪行動をおこす人間が発生しがちではなかったか。」

「坂本監督とプロデューサーから小説「闇の子供たち」の映画化へ打診があったとき、私は反対した。映画化することでかえって児童売春者に刺激を与えてしまうこと、センセーショナリズムは一時的な感心と同情を呼ぶが、人身売買の背景となる社会経済および政治的な構造的な問題の解決には向かわないと考えたからである。また、小説を映像化するには、事実誤認と思われる箇所もあったし、なによりも、国として日本よりもずっと先進的な人身売買対策を行っているタイ政府に対して失礼ではないかと思われる箇所もあった。また、タイ国内の臓器売買については殆ど知らなかったので、あいまいな情報を映像化されることに大きな抵抗があった」

「坂本監督は、私の抵抗感に同意する、と言った。そして「この映画はタイのかわいそうな子どもたちの映画ではない。日本や先進国の児童売春をする者とそれらを創り出す社会を告発する社会的な映画なのだ」と言った。どうしても映画を製作するならば、と以下のコメントと要望を私は監督に伝えた」

子供たちへの暴力シーンは極力描かないこと、子どもたちの非力や魅力を強調するのではなく、醜い買春者らの表情や体を画像にだすこと、子どもたちが本来持つ伸びやかな生命力を表現してほしいこと(児童買春はそれらの力をうばう犯罪であることを観客が認識するため)、役者となる子どもたちの精神的な側面にも配慮をしてほしいことなどである。また、以前ならば女衒、現代ならばトラフィッカーと呼ばれる、少女たちを買い受け、移送するブローカーの男性を「悪者」として描くのではなく、彼自身も精神的な被害を過去に負っているという人間の複雑さを出して欲しいことも要望した。人身売買問題は「悪者」を退治すれば解決するような簡単な問題ではないのだ。

「坂本監督は、私の要望を「ほぼ」叶えてくれた? 試写を見たときにそう感じた。人間性をすり減らすような人身売買という重いテーマの中で、冒頭の満月や、ヤイルーンが故郷に向かう際に大木に抱きつくシーン、ラストのヤイルーンしまいが水辺で戯れるシーンは、彼女たちがほんとうに普通の少女であったことを連想させ、ほっとするとともに、人身売買の残虐性を暴力シーンではなく浮き彫りにしている。日本は人身売買受入れ大国と言われている。子どもたちもまたさまざまな方法で日本に連れてこられ、被害に遭う実態がある。複雑かつ巧妙に辛み合う背景を伴う人身売買ビジネスの根をどう断ち切るか、私たちひとりひとりに突きつけられた課題である」

「(人身売買が行われる背景には)消費主義、拝金主義、自由主義の蔓延、相対的貧困の増加、社会格差のスピードアップ、ガバナンスの崩壊(などがある)。しかし、もっとも大きな理由は、貧困や社会格差だけでなく需要側の問題である。需要が削減されていないのに、いくら供給側を水際で防止しても、元の木阿弥」

●日本にも人身売買はあった、貧困という状況はそのままいつの時代でも人身売買に類するものに繋がっている。置屋、売春宿にに売られる娘、昔の日本でも食うに食えない状況では自分の娘を売ってでも金を工面しなければならなかった。タイの現状も似たものといえるのだろうか。いずれにせよ、問題は、そういうものを供給する、しなければ生きていけない側ではなく、そういうものを欲する需要の側だという斉藤百合子さんの指摘はするどいものがある。

●こういったことを書いていると終わりが無くなる。ここでは自分もこの状況から逃げざるを得ないというのが本音だ・・・・・。

●それにしても、よくこの原作を映画にしようと思ったものだといたく感心する。とてもヒットなど望めないような内容。ビジネスとしてはなりたたないような映画化、それを実行し、こんな現実があることを一人でも多くの人に映画という手段で知らしめようとした関係者の労力には頭が下がる思いだ。

●それでも、少しでも観客は欲しい、いや、そういう言い方はよそう、少しでも多く観客が入ってくれれば、少しでも多くの人にこの現実が伝わるのだから・・・。最初、キャスティングを見たとき、一体これはなんなのだろうと思った。宮崎あおい妻夫木聡を使うのはどうなんだ? こんなヘビーで真剣な内容の映画を作るのに、プロデューサーや監督は、なんでこんな役者を使うんだ?と思った。やはり少しでも動員を稼がなければ、真っ赤ッかでは映画が成り立たない、作ったことがマイナスにしか響かない、だから人を呼べる今流行りの人気俳優をキャスティングしたのか?それは酷いなと思った。だが、ポジティブに考えれば、この二人がでてくれたお陰で、こんな暗く重い内容の映画であれば絶対に劇場に足を運ばないような、若い男性も、女性も、少しはこの映画を見るという行為に動かせるかもしれない。そう考えれば、流行りの二人のキャスティングも間違ってはいないのではないかと思えてきた。

●だが、宮崎あおいは世間知らずでどうしょうもない融通の利かないダメな日本人女性を巧く演じていたが、妻夫木は無くても良いような役だった。彼はほとんどいてもいなくても良いようなチョイ役、画面の騒がし役でしかなかった。その変が映画としてなんだかなぁという気持ちは残る。

●主役を演じた江口洋介は、この難しい役を上手にこなしていたと思う。ラストに至る展開はショッキングであった。

●なんにしても、こんな映画が作られる素地がまだ残っているというだけでも、日本映画はまだまだ捨てたもんじゃないと少し安堵感を覚えた。TV局や芸能プロダクション主導の金儲け主義が堂々とまかり通るような映画ばかりではない、こういった映画もまだ日本では作れるんだというところに、希望が見えた気がする。映画で取上げられた事実には、希望どころか絶望感が漂っているのだが。