『focus』(1996)

●カメラマンが手持ちカメラで撮影している映像を覗き見ているような映画。監督の目はカメラの後ろの映画を見る観客の位置にある。映画を観ている者はカメラのレンズを通して実際にその場にいるかのような気分になる。ストーリーはは常にカメラの目線で進行する。

●同様に、手持ちカメラで撮影し低予算で世界的な大ヒットとなった「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」が1999年の製作であるからその3年も前に日本にこういうアイディアを持った人物が居たのかと、10年以上経過した今にして知り少なからず驚く。

●最初、何かの撮影を路上で行っているのだなとは分るのだが、浅野忠信演じる金村という青年がどういう存在なのかが分らない。だいぶ話しが進んでから盗聴マニアの青年を取材しているのだなということは分ってくるのだが、これは最初から明らかにしておいた方がいいだろう。登場人物の素性が分らないから話しの中に入っていけない、故意に素性を隠す必要のある設定ももちろんあるが、この金村という男の素性に関しては最初から明らかにしておいたほうが、浅野の演じる役の意味も分るし、映画の出だしからストーリーに引き込むことも出来ただろうに。

●取材の中心人物であるTVディレクター岩井を演じる白井晃が巧い。ナチュラルだ。如何にも、自分の会社での立場をに踏んぞりかえって大名の如くなんでも自分の言う通りにさせようとする、超傲慢、身勝手、自己中な人物を見事に演じている。正直演技とは言えこの白井には観ているだけでムカムカしてくる。こういう奴が居るよな、こういう最低な野郎はいるよなと思えてくる。観ている側にそう思わせるのだからそれだけリアルなのだ。セリフや演出の部分もあるが、このムカつき感をもよおしてくる演技はなかなかである。実際TVディレクターなどというのにはこういうタイプが多い、というかそういう業界、世界でそういう人物、性格に育てられてしまうのだろう。物語の後半でそういったTVディレクターの傲慢さに対する揶揄も出てくる。白井晃は主役級や目立った配役を掴んでいないようだ。彼も性格俳優の一人といえるが、演技が巧いのだが色が出過ぎてしまう事がマイナスなのかもしれない。

●AD役の海野けい子は劇中では口封じの為に岩井に無理矢理犯されそれを撮影までされる酷い役だ。この子は他にどんな役をやっていたのだろうかと調べてみた。1988年のミスワールド日本代表らしい。この作品が役者としてのデビュー作らしい。 だがその後はあまり作品にも恵まれていない。TVドラマの脇役や極道系の映画などに出ているが(確かにそういう映画に良く出ているタイプの女優というイメージがこの頃からある)ヌード写真集を出したりして、現在は芸能界を引退しているとのこと。最初に得た役がこのAD役というのはたぶん余りイメージとして良くなかった。デビュー作からイメージにミソが付いてしまった。作品と役が役者のその後を大きく左右し決定づけてしまうことがままあるが、彼女の場合もこの作品がデビュー作でなければ、この役が最初でなければもう少しいい作品、いい役をもらえて、もう少し輝いたかもしれない。残念ながら花開かず萎んでしまったようだ。

●脚本は良く練られている。ふざけたガキ共が出てきてストーリーが急展開するのはちょっと頂けないのだが、その他は巧妙で破綻なし。特にTVディレクターのセリフやAD、カメラマンとの絡みのセリフは現場を知った人間でないと書けないのではないかと思える真実味がある。脚本を書いた新和男は実際にこのような人間と仕事をし、このような現場、このようなやりとりを体験していてそれを脚本におこしたのではないだろうか? その位セリフがリアルだ。妙な程リアルだ。これだけ見事にまとめられた脚本を書いているのに、新井男としてはその後なんの作品も書いていない。ネットで調べる限りにおいては、その後「傷だらけの天使」という本を丸山 昇一と共著で書いていることしか分らない。ペンネームを変えて他の作品を書いているのだろうか?

●監督の井坂聡もイマイチパッとしない作品を撮り続けている。TV局、番組絡みの映画が多い。だが、この作品にしても「破線のマリス」にしてもTV局とTV、それに関わる人間を痛烈に批判した作品が目に付く。監督自身は現代の拝金主義、功利主義の批判をしているようだが、その批判の対象の中で監督業を続けているようにも思える。何故か? 日本映画監督協会のHP:エッセイ第10回「10年」C-2で2005年にこの10年を振り返ってというエッセイを書いている。
「この十年間で世の中は確実に殺伐となった。儲けの多寡がそのまま全ての評価につながる単純化された尺度に薄気味悪さを感じてしまう。しかし嘆いていても始まらない。こんな時代だからこそ、手作りの嬉しさを味わえるような作品を世に出したい。それが今の私のささやかな願いだ。」と。もっと社会意識の高い監督だろう、もっと問題意識の高い監督だろう、もっと痛烈な批判精神を持った監督だろう。この「focus」で表現された痛烈なパンチを、もっと作品に投影し、もっとエッジの尖った先鋭な刺激的で痛烈な作品を作って欲しいと思うのだが・・・。本人も本当はそういう作品を作りたいと欲しているのではないだろうかと思うのだが。

●あまり大きな注目も浴びず、話題にもならなかった映画のようだが、その後10年以上かけて徐々に評価の声が上がってきているようである。その多くが浅野忠信の演技に注目している。確かに浅野忠信は無線オタクの暗さや思っていることを演技でしかと表現している。きっとかなり事前に調査もしているのだろう。そしてガキ共に絡まれてキレ、拳銃でガキの一人を撃ってしまってからの演技は観ている側も身につまされるようなものがある。なんでもないひっそりとした生活をし、こっそりと無線で盗聴していただけだったのに、TVディレクターの話しにまんまと乗せられて取材に強力してしまったことから取り返しのつかない事態に陥ってしまう。「なんで俺がこんなことにならなきゃないんだよ。なんでだよ。全部お前が悪いンじゃねーか。お前が嘘ばっかりついてるから悪いんじゃねーか」そう叫ぶ浅野忠信の声は自分の意図しないところで不合理なものに翻弄されてしまった自分への腹立たしさ、苛立ち、そしてそれを作ったディレクターへの怒りに満ちている。

●「お前、世の中を敵にまわすぞ」そういうTVディレクターに「お前が世の中なのかよ、お前が世の中を動かしてると思ってるのかよ」そう言って拳銃を突きつけるシーンは、監督、脚本家のTVというメディアとそれに関わり、のさばる人間への嘲笑だろうか。

●ラストは日本映画とは思えない展開・・・・この映画のスタイルは海外でももっと評価されるべきだ。

●世界に先んじた映像スタイル、撮影手法、アイディアだったのだが、その評価が広がらなかったのは何故か? TVというメディアを批判したからか? それで作品は片隅に押し込められたのか? 封じられたのか?

●製作:西友、エース ピクチャーズ・・・1996年、まだバブルが息途絶えていなかった頃、あの頃は西友でさえも映画製作に出資していたのだなと懐かしくも奇妙にも思える。テアトル西友を展開していたのだからスーパーと言えども映画との関わりは強かったとは言え、今ではちょっと考えにくい。これもバブル時代の思い出の一つかもしれない。