『風花 kaza-hana』(2000)

相米慎二監督が2001年に他界してもう7年、今にして故人の遺作となった映画を観る。

●実際の劇場公開が2001年ということだから、最後のこの作品が公開されて、一つの仕事が終わった頃に亡くなったということになる。映画監督の最後ってそんな感じが多い。那須博之しかり、キューブリックしかり。まだまだ撮りたかったのだろうけれど、一つの仕事が終わるまで保ち続けた緊張の糸がふっと緩んだとき、静かに眠りについてしまうのだろうか。心が平穏になり、肩の荷が下り、安らかな気持ちで。

相米監督作品でもまだ30代の若い頃に撮影した「ションベン・ライダー」「台風クラブ」などは余りに粗が大きく雑、勢いだけで撮っている感じで、煮詰められたものを感じず、今の目からすればとてもじゃないが、まともに映画として評価出来ない。

●この「風花」は相米監督が50代になってから撮影した作品。やはり人間としても映画監督としても円熟してきたのであろう。30代で撮った個性やアクの強さ、エグミが表に出ているような作品とは全く異なる映画になっている。

●これが人というものの成熟なのだろう。

●若手高級官僚が酔った詰まらぬ失態で職を追われる。風俗店で出会った女と何故か女の故郷まで行くことになる・・・こういった設定はリアルであるようでリアルではない。良くある話しの作りかたでもありそこには斬新さはない。無理矢理話しを持ってきている作り方で、これにしてもパターン化した話しだ。(最近、類型、パターンというのが口癖か)

●ロード・ムービーというのはどうしても北海道が舞台になってしまうんだな。広い大地、長く走ることの出来る道、道路の両側に広がる自然の風景、寂しさを感じさせる街。ロード・ムービーにはそういったものが要素として必要なのかもしれないが、必ずのように北海道となるとこれももう手垢が付いた設定になってしまう。「幸福の黄色いハンカチ」の亜流として見えてしまう部分もある。

●流れ着いた山奥の宿、食事の後の宴会の席で柄本明の宴会芸「ぴよぴよー」は傑作。

●風俗嬢という設定の小泉今日子・・・ぴったし。いかにもうらぶれた風俗嬢という姿がもう本人そのものという感じ。
雪のなかで踊るシーンは意味不明であるが。

●さらっと出てくる麻生久美子がベットで立たない澤城廉司(浅野忠信)に「気にしなくていいよ、私が自分でやるから見ていて」と言って自慰をするシーン。麻生の姿はなく、声だけなのだが、悶える声だけでかなりのもの。

●なんとか男と巡り合い、子供も出来ちゃって、ほのかな幸せを掴めそうだったのに、一転して坂道を転げ落ちてしまった女。その女が自分の生んだ子供を預けた親の元に帰ろうとする。親ではなくて子供に会いたかったから。作品は妙な棘もなく、しっとりと淡く、それこそ淡い桜の花のごとく柔らかな雰囲気のなかでストーリーが進んでいく。正直言って、ありきたりなストーリー展開に余り深い感銘を受けることも、大きな感動を受けることもない。だがそれが全体の大きな抑揚のないトーンにマッチしているのかもしれない。

●人生に失敗したかのようで、もう人生にも自分にも疲れ、強がってはいるけれど諦めの気持ちも持っていて、ひょんなことから自殺して死んでしまおうとする女。そんな女の切なさは強調するところがあまりない演技の中でじわりと伝わってくる。ラストにしたっって、これまたありきたりでもある。だが、それもこれも含めてこの映画の色、雰囲気、トーンなのかもしれない。

●決して名作でも、優れた作品でもないと思う。だが、晩年の相米慎二監督が紆余曲折の映画作りの果てに辿り着いたのがこの作品だとしたら、この作品の登場人物に感じる、もういいかなぁというような諦め。哀しいけれど仕方ないね、こうなってしまったんだからというような諦め。人生に対する絶望ではなく、失望でもなく、自分は自分なりに歩いてきたんだけれど、こうなってしまったのだから、仕方ないんだよねという気持ち。そんなものが監督そのものの人生や思いと重なっているように感じられる。

●人の人生の侘び、寂を纏った作品かな。