『おくりびと』

●前評判の高さは嘘ではなかった。非常にバランスよくまとまった良作である。

●本木、山崎、杉本、余、笹野と登場人物を演ずる役者の演技力が格段である。(広末は・・・・後述)

●死者の納棺前の最後の姿を飾り付ける納棺師の話しと聞いていて、しごく厳格なストーリーなのではないかと想像していたら、最初からちょっとオフザケっぽいジョークが入る。「これってなんだか話しにそぐわないな」「死というものをテーマに扱っているのに、こういう冗談はどうなのだろう? ちょっと不謹慎な感じだ」と思ってしまったのだが、そうではなかった。途中途中に含まれるお笑いは、納棺の前の飾り付けの”儀式”をより際立たせていた。もう動かなくなってしまった人にも、それぞれの生き方と人生があった、それを面白可笑しく見せてくれるお陰で、死んでしまった人への悲しみ、哀悼感がより深く心に染み込んで来た。楽しかった人生、可笑しかった人生、ヘンテコだった人生、それぞれの人生が終わってしまったんだなという悲しみが笑いと共に涙になってこぼれ落ちてきた。

●死というものを厳格に捉えただけの映画であったら息苦しく、見るのが辛かっただろう。それをこの作品では笑いを織り交ぜることで人生の最後の儀式に、優しさのベールを掛けて柔らかく包んでくれている。

●そしてこんなテーマの映画に、映画としての娯楽性までをも内包させている。なかなかだ。

●死というものは、日本であろうが、アジアであろうが、ヨーロッパであろうが、アメリカであろうが、普遍的な真理として存在する。国や宗教、文化の違いを越えて共通する絶対的な事実である。その死を日本という国の文化がこれだけ尊厳灼かに取り扱い、火葬される前の死人に生前と変わらぬ姿の化粧を施し、穢らわしさではなく、尊さを纏わせて送り出す。その行為に、世界中の人々は我々日本人と同じく、胸を打たれ、厳粛な気持ちとなり、心に感動の波を漂わせるであろう。日本は特異なカルチャーの国として外国から捉えられている。だが、この納棺師の仕事は日本という国にある一つの特殊な文化として捉えられたとしても、万国の万人に厳かで神聖な儀式として心して受入れられるであろう。その儀式を取り上げたこの作品は日本人として誇りをもって多くの国の多くの人に紹介したい一作である。

●納棺師や人の死という大きなモチーフの他に、親と子、父親と息子という家族の葛藤の描写も見落とすわけにはいかない重要な話しになっている。店の若い女といい仲になって、妻も子供も捨てて出ていった父親が、たった一人で身寄りもなく死を迎える。その最後の姿を生前のごとく美しく仕上げるのが捨てられた子供。途中から殆ど見え透いていた思った通りの展開ではあるが、やはり泣けてくる。結局映画、小説も、最後に辿り着くのは親と子、家族という部分だ。それこそが人間が生を営む上での最も大切な関係であるのだから。

●ストーリー展開での前振りや伏線となるエピソードはあまりに単純すぎて、それが後でこうなるんだろうなぁという予想が意図も簡単に出来てしまう。その位ちょっと話しの組み方としては単純、下手くそなのではあるのだが、伏線から繋がるオチを実際に観てしまうと、やっぱり涙が零れてくる。いいシーンが非常に多い。オフザケのエピソードや、人間の感情に振り回されたゴタゴタで、うーんと思っても、本木と山崎の二人が死者と家族の前で死体の体を拭き、顔を美しく整えて行く姿をみると、その度にジーンとくる。この二人の名演も見物だ。

●PRの予告編で広末が「穢らわしイ、ィ!」と言ってるシーンを見たとき、なんで広末なんかを使うんだろうなぁ、もっと他にぴったりの役者はいっぱいいるだろうに。もう広末は人を呼べるような役者じゃないんだから・・・・なんて思っていた。どこのどんな映画に出ても、いつも同じ演技しかできなくて、没個性。役柄は大きく違うのに、同じ喋り方と同じイントネーションと同じ顔つき、同じ唇の窄めた顔、唇を引き攣らせて横に延ばした顔しか出来ない広末に、こういった真剣な作品の役をやらせたら雰囲気が丸潰れになってしまうじゃないかと・・・。

●最初っから10代の頃と変わりないあの唇を横に引っ張ったような笑い方で出てきて、10代の頃と変わらない喋り方で、10代の頃と変わらない態とらしい笑顔で広末が出てきたとき「うわ、やっぱりダメだこれは、絶対にキャスティングが間違っている」「監督もなんでいつまでも同じなこの演技を修正しようとしないんだよ」と思ったのだが、広末を取り囲む名演技をする役者達との絡みを見ていたら、広末以外が実に演技が巧いもんだから、なんとか絡んでいる広末も見れるようになってきた。そして銭湯のおばさんの納棺の時、オバサンの家族と一緒に並んで納棺の儀を見ている広末は、ようやくなかなかまともな顔になって見えた。この映画に唯一つ危惧していたのは広末がせっかくの良い雰囲気をぶち壊してしまうんじゃないか?ということだったが、今回はなんとかなった。いや、ギリギリセーフのちょっと上くらいのところにはあった。相変わらず演技にバリエーションも幅もなく、画一的なキャラを一つしか演じられない広末だが、少しは成長した感じか。広末はもっと歳をとって50歳、60歳位になれば可愛いおばあちゃんというキャラでうまくいきそうな気がするけれど、今の段階ではやっぱりかなり苦しい。

●クリスマスに関するエピソードが二回出てくる。日本という国の、別にキリスト教を信奉しているわけでもない人が、クリスマスのお祝いをし、チキンフライを食べているシーン。銭湯の番台を守っていた山下ツヤコ(吉川和子)が火葬されるとき、その銭湯の常連であり、火葬場の職員であった老人の平田(笹野高史)が、ツヤコに頼まれてささやかなクリスマスパーティーをしたと息子に打ち明けるシーン。日本人にとってクリスマスとは宗教と全く切り離されたイベントであり、愛を語る日のようになってしまっているから、こういうエピソードになんら違和感を覚えないのかもしれないが、本来キリストの生誕を祝うお祝いの日であり、キリスト教を信奉する国の人がこのエピソードを見ると、ちょっと”?????”と思うのではないだろうか?

●どこぞの監督のように最初から海外を意識して作っているなら、ここまで日本式の葬儀の様子を描写しておいて、それと同時にクリスマスの話しというのはたぶん修正されたであろう。元々は海外マーケットなんてことを意識せず、海外の映画祭なんてのも考えず、日本での公開ということで作られたのであろう。それがモントリオール映画祭でグランプリ!ということは映画祭の選考委員も、日本の納棺の儀式の話しと、クリスマスの話しのちぐはぐさはあまり気にしていないということか? それともやっぱりその宗教儀式がごっちゃになった奇妙さが日本文化の興味深さと思ったのか? 

●まあ、苦言も呈しているが、着物を着てタップダンスを踊るような映画よりはよっぽどマシである。

●今のところ「歩いても、歩いても」に次ぐ、本年の邦画では二番目の良さである。