『燃ゆるとき THE EXCELLENT COMPANY』(2006)

●出だしから始まって、前半は全てベタベタな話。日本企業が海外に進出したときの土産話として、今まで何度も繰り返し語られ描かれてきたような余りに典型的なよく聞かされてきたような話を、なんの工夫もせず張り付けて繋ぎ合わせている感が強い。現地工場でのエピソードなどはちょっとあまりにも類型的過ぎる。もうすこし表現に工夫があってもいいだろうと白ける。

●後半は海外に進出した日本企業が遭遇した苦労や困難、ユニオン結成に向かう社員とのトラブル。それを乗り越える努力を描いている少しはまともなビジネス映画的になってくるのだが・・・なんとも高校生がやっている学芸会の演劇でも観ているような映画だ。

アメリカ工場で働くヒスパニック系、黒人などの従業員の苦労、生活苦、人種差別的部分なども話の中に取り入れ、現地従業員の真の状況を映し出そうとしているかのようでもあるが、全てが摘み食いしている程度の状態で、それを噛みしめ、咀嚼し腹の奥に飲み込んで理解しようという態度ではない。こうゆう状況があると摘み出して並べているだけで、その状況の深層に踏み込もうとはしていない。ただ箇条書きにしただけで検討も考察もしていないノートのような状態。

●海外で受けた企業買収工作、女性現地従業員を利用した投資会社のセクハラ事件捏造、組合結成を利用した企業攻撃、アメリカでは弁護士が犯罪を作るというセリフ等のエピソードは興味深いが、どれも話に深さがなく挿話として表面をさらさらと流れているだけ。これでは日本企業が出くわしたあれこれの事件をいくつか取り上げて、貼りつけて繋げているだけにしかならない。

●当時あった、猛烈サラリーマン、企業戦士の自分の私生活も棒に振って企業に尽くすといった妄信的な熱さは描き方にしても極めて類型的、ステレオタイプな描き方だ。今までどこかで見たり聞いたりした記憶に残っている事を模写でもしたかのような描き方でありしかもかなり浅薄だ。登場人物から当時のサラリーマンの、馬鹿じゃないのと思えるほど会社と仕事に尽くした頑張りや勘違いしたような熱意は感じられない。子供の病気を引っ張り出すのもこれまたワンパターンに乗っかり過ぎている。

●一方的なレイオフ、生活も苦しい従業員が、日本語を頑張って学び、なんとか管理職になりたいと願うが、現地従業員は能力があっても管理職へは登用されない。雇用する企業の側と雇用される従業員の側の差別、不平、不満。雇用環境の改善のため従業員が作ろうとするユニオンも投資会社の策略の一旦。様々なエピソードが羅列されているけれど、どれもそれを深く考えたり検討したり改善しようとしたりといった踏み込んだ描き方は全くと言っていいほどない。いわゆるエピソードを集めて団子の串刺しにした状態であり、全部がぶつぶつと千切れ、途切れ、繋がって融合していない。ようするに映画としての出来が悪い、一本の流れのある映画というものに達していないのだ。

●外国人出演者、俳優の演技が素人役者かと思えるほど非常に下手。まだ演技を学び始めたばかりのような研修役者を安いギャラで集めたのではないかとさえ思ってしまうくらい演技が大根。長期の海外ロケで予算も掛かっているし、外国人の出演者はなんでもいいから仕事が欲しいという役者を兎に角低いギャラで寄せ集めたのではないかと思ってしまうほど下手である。

●日本人の俳優は充分に豪華。カップラーメン工場の製造シーンなども随分と金が掛かっている。海外ロケも長期にアメリカ、オーストリアで行われたという。しかし、2006年の邦画バブル真っ盛りの時だったからこそこんな映画も作る事が出来たのだろう。

●そもそもにして、この映画は作品としての作りがかなり粗く、拙い。演出も編集も演技も実に拙く雑な部分がかなり目立つ。映画としてかなり稚拙というか下手だ。映画コンクールに応募された今まさに映画の勉強をしている途中ですといった学生作品のごときレベルの部分が散見される。この監督にはまだ一般公開されるような作品を撮る技量はなかったのではと思わざるを得ない。

●タイトルに反してだれ一人燃えるようなものがない。

●少しだけアメリカ社会の現状を考えさせるシーン、セリフがあった。
《ここは自由な国じゃない、自分たちのような産まれの人間はいつまで経っても貧乏だ》
《この国は自由の国だというけれど、本当は違う。ここは自由のない国だ、私のような育ちの人間は、教育も受けられず死ぬまで貧しさから抜け出せない》

●日本の企業もの映画としては『陽はまた昇る』のほうがいい。