『イントゥ・ザ・ワイルド』

●1960年代に全世界的に吹き荒れた、学生運動や、反体制運動、自然回帰、文明批判などはもう半世紀近く経過した今となっては風化してしまったイデオロギーなのだろうか? 体制側に抑圧され、押し込められ、抗う事を諦めさせられ、それが世代を超えて定着してしまったかのようだ、だが、人間の根本には1960年代に噴出したイデオロギーは途絶えることなく脈々と流れていると思う。それがいつまた噴き出すか、その希望は果てしなく遠い光かもしれないが。

●かって、文学者、芸術家、思想家はその表現の中で、文明批判を繰り返し叫んでいた。だが、1980年代以降、文明批判なんて言葉は死語になっている。今の中高生、大学生でも「え、文明批判? 何それ?どういう意味?」という感じなのではないだろうか?

●脚本家の橋本忍は「八甲田山」を製作するときに「もう日本には自然というものが無いのではないか?」とまで嘆き、それを八甲田の厳しい自然を相手にした映画製作の原動力にしたという。開高健ベトナムの戦場から戻り、文明と名のつくものがあまたの自然を取り壊していく態を批判し、自らが大自然の中に旅し、それを言葉で表現し、伝えることで、文明批判を繰り返した。

●今の日本で「自然がない」なんて言葉が誰の心に響くだろう? 「沢山あるじゃないか?」と声が返ってきそうだ。公害や大規模な自然破壊は目に見えないところで進んでいるのに、我々はそれが感じられないように慣らされている。次の世代、その次の世代に繋がる未来は本当にあるのだろうか?「ソイレント・グリーン」の時代は本当に来てしまうのではないか?

●文明批判、自然破壊、1960年代のヒッピーブーム、この映画はそういったものに、懐かしさを感じてしまう映画だ。そう昔はこういう事を皆が考えていたんだなって。映画自体も1960年代から70年代に作られた作品の様な雰囲気が漂っている。派手でエンターテイメントで、統計でパターン化された演出だとかは殆どまるで無い、全く無い。ありうるべき映画の素の姿が戻ってきたような優しさと柔らかさ、そして懐かしさを感じる。これを「スローだ、緩慢だ、テンポが緩い、演出が薄い」などと受入れられない世代が今は圧倒的であろうが。

●若い頃に自分が持っていた、だけどいつの間にか、諦め、押し込め、投げ捨て、無くしてしまった何かが・・・この映画の中にはあるような気持ちになる。そういったものを思い出させる映画でもある。

●10代後半から20代にかけて、人間という動物が持っている、無垢な純粋さの湧出。それを押しとどめる力も、説得する論法も誰も持ちえていない。精神の純粋さはとめどなく氾濫する。その氾濫を抑えることができるのは己自身でしかないのであろう。

●思い起こせば、自分も10代半ば、パックパックを背負って旅に出た。ジョン・ミュアの伝記に心を打たれ、芦澤一洋氏が訳した「遊歩大全-COMPLETE WALKER-」を手にし、ローマクラブの「成長の限界」をろくすっぽ理解も出来ないのに読んだりしていた。あの頃のバックパッキング・ブームはアメリカやヨーロッパから日本に伝わり、野山(WILDNESS)を彷徨うことにこそ、学校、先生、教科書、両親、既に規定されたかのように存在しているものから教えられることよりも遥かに崇高なものがあると思っていた。(そう啓蒙されていた)

●あの頃、多くの若者は野山を彷徨った。そこは実際には、整備された登山道や、トレッキングトレイル、自然の美しさを売り物とした観光地などでしかなかったし、荒野(WILD)ではなかったのだが、人間の手が加えられ、安全が確保された自然の中であっても、都会には無いもの、文明が進むなかで身近から消えていったものが未だ残っていると考えていた。

●物象としての自然を求めていただけではない、この映画の主人公のように、自然には人間が生きていく為の真理というものも含まれていると思っていたのだ。だが、そんなものが、ちょっと足を伸ばすだけで、ちょっと苦労をしたと自分に思わせるだけでたやすく行けるような自然の中にあるはずも無い。立っている場所を変えて何処かへ行っただけで手に入れることのできるようなものであるはずがない。そんなチャチで簡単に手に入るものであるはずがないのだ。だが、若者は、今居ることではなく、今のこの場所意外の何処かへ行けばその一端でも分るのではないか、掴めるのではないかと考え、期待した。理想を持った。そして押し返された。

●主人公であるクリスの行動は今の時代からこの作品だけを見ると、非常に奇特な行為に思える人も多いのではないだろうか。だが、ほんの少し前の時代、多くの若い魂と心は、クリスと同じように自然を、荒野を目指していた。自転車で本州を縦断しようだとか、北海道を一周することだとか、若者はなにか形と区切りのあるものを自分に目標として設定し、それぞれの力と思いの範疇の中で、野に山に飛び込んでいった。クリスの行動は際立って特殊なものではない。だが、他の若者よりも考えをストイックに掘り下げ、他の若者よりも、ほんの少し、一歩か二歩だけ理想を先に押し進めた、安全な範疇から足を踏みだした・・・・クリスの生き方は、そこだけが違うのだ。その違いはほんの少しでありながらも、生みだされた結果は大きな違いになってしまうのだが。

●若さの暴走で現実社会を飛びだした若者は、余りにもあっさりと目の前にある壁にぶち当る。そして己の無知ぶりを知り、経験の少なさを感じ、己の無力さを痛感し、弾き返され、理想や、情熱の滾りを冷まされて現実に戻ってくる。そして諦め、組織に同化し、かって自分が否定し、嫌悪した存在と同じ道を歩み、同じ存在となっていく。

●人生の中でこんな純粋無垢で腫れぼったい時代を過ごし、味わい、弾き返され、挫折した経験を持つ者こそがこの映画を分りえる。10代、20代でこの作品を分るというのは極めて少数であろう。30代だって似たようなものかもしれない。クリスの生き方に、この時代の状況と思想に懐かしさと、共鳴を覚える。だが、既に自分は過去に確かに持っていたクリスと同じような若さの滾りを失ってしまっている。かっての自分が持っていたもの、今は全て失ってしまった、いや、自ら捨てた、情熱だとか理想、ひた向きさ純真さ、そういったものへの喪失感が、この映画の中から自分の心を揺さぶりつける。

●きっと、ショーン・ペンも、短かったクリスの生涯に、思いを通じるものがあり、このノンフィクションの映画化を心に決めたのであろう。10年の歳月を掛けて、こういった作品を映画化する姿勢に賞賛の拍手を送りたい。

●トレーラーでギターを弾き、歌を奏でる トレイシー役のクリステン・スチュワートが魅力的。セリフにもあったが、ジャニス・ジョプリンのイメージが投影されているのだろう。それともジョニー・ミッチェルだろうか? 野性味のある美少女、美しい歌声。彼女の存在も、荒れ果てた砂漠の中に生活するヒッピー達の理想の象徴だろう。

●人との関わりを否定し、それを断ち切ろうと旅に出たクリスだが、そのクリスのアラスカまでの道のりに手助けしていたのは、農場の経営者や、ヒッピーの二人、一人で暮らす老人であった。それは紛れもない人との心のこもった関わりであった。真理を掴むため、大地から授かるものだけを糧にし、荒野のなかで一人で生きてみたいと願ったクリスだが、クリスの求めた理想の道程は、否定したものによって補われ、助けられ、前へと進んでいった。クリスはそれを知りつつも、肯定はしなかった。クリスの求めた理想は、クリスが否定したものの上に成り立つ幻想であったのだ。

●アラスカへ向かう直前まで、クリスを私心なく助ける老人ロン(ハル・ホルブルック)も人生の憂いをたたえた名演を魅せてくれている。純粋に真っ直ぐなクリスは、ロンに向かって「外の世界へ出よう」と語りかける。ロンにもそんなことは分っているのだ、クリスの純粋な言葉はロンにも痛いほどに分っているのだ、だが、その言葉に素直に頷けるほど、年老いたロンには生への力がなくなっている。それが分っているから余計にクリスが眩しく、己が悲しくもなる。

●文明から逃れ、アラスカの荒野に進んだクリスが、荒野の中で生を確保する場所としたのが、投棄され朽ち果てた文明の利器であるバスの中であるというのが皮肉でもある。人が完全に文明から切り離してはもう生きていけないということを感じさせる。雨風をしのぎ、野生の恐怖から身を守るには文明の力を借りなければ、人はたちどころに野生に飲み込まれるであろう。

●冬が過ぎ、クリスがもう一度文明の世界に戻ろうと考え直した時、自然はクリスの甘い考えを打ち砕く。春の雪解けと雨で増水した川は文明社会へ戻ろうとするクリスを冷徹に拒絶する。食うものが無く、飢えたクリスが頼みとするのは、文明社会からもちこんだ一冊の植物に関する本。結局クリスは、己が求めた荒野での生活が、どれだけ甘っちょろい考えだったかを噛みしめる。20数歳の人生の知識も経験も貧困な若者が、本当の荒野で、大地からの恵だけで生きていくことなど出来はしないのだ。クリスが求めた真理は、遥かに厳格で、その容赦ない厳しさでクリスの甘えた理想など粉々に打ち砕くのだ。
●クリスが死を覚悟し、雨の上がった青空を見上げたとき、生を保持する場所であったバスの側を流れる川は、大きく減水し、意図もたやすく徒渉することの出来る状態になっていた。だが野生のポテトの毒に犯されたクリスはバスの中から出ることも出来ぬ状態となっていた。その川を見ることも、希望を繋ぐことも出来ず、青空を見上げながら絶命する。ラストに映されたバスと川と荒野のシーンは、人の悲しさ、愚かさ、そして無力さを痛々しいまでに感じさせる。
●己の情熱が己自信を焼き尽くす。少し違うかもしれないけれど、そんな感じだろうか? 山を愛する人間が、孤高の高さを求め、より厳しい登山を求めて、そして死んでゆく。自分のより高い負荷を掛けることで更なる高みを目指す。ストイックな精神。

●重苦しい程のラストだ、クリスは死んでしまった。だが、絶望ではない。我々にもこんな理想と希望が確かにあったんだ。そうもう一度思いださせるような終わり方である。最近ではこういった作品はめったに無い、珍しい。

●本国からかなり遅れての日本公開である。作品の内容から言って、大手の配給会社は収益を見込めないと見て、二の足を踏んだのであろう。ミニシアター系というほど小振りな作品ではないが、スタイルジャムのようなインデペンデント系の会社がこういう作品を引っ張ってきて日本での公開をするというのは評価したい。

●砂漠の中にある、ヒッピー達のトレーラーハウスが集まる場所。今でもアメリカにはこういった場所が存在しているのだろうか?

●心に引っ掛かる貴重な作品。

○2011.9.6 再見
・劇場公開で鑑賞してから、もう3年も経つのか。この作品はかなり胸に響いたし、2008年のベスト3に入れていたくらい好きだし、高く評価している。だが内容のストレートさ、主人公の生き方の熱さに叱咤されるようで、あれ以来二回目の鑑賞をすることがなかなか出来なかった。

・改めて観て気がついた。クリスがバスを捨てて家へ戻ろうとしたそのきっかけは、トルストイの小説「家庭の幸福」に書かれた言葉だった。トルストイが最後に幸福とはなにかという人間の根源的な悩みを解氷した言葉「そしてなにより必要なのは人生の伴侶と、子供への愛だろう」その言葉でクリス仲違いしていた父のいる家族の元へ戻ろうと決意した。父の自分への愛を思った。幸せになる為には家族が必要であり、父が子供である自分をどれくらい愛していたかをを知る。人生の幸せのありかをトルストイの言葉で知ったクリスは、本をまとめザックに詰め込んで町へ帰ることを決意する。しかし、両親の愛にこたえようとようやく思ったクリスの前に広がっていたのは増水して渡れなくなっていた川だった。なんてゆう皮肉だろう。路上にしゃがみ込み天を仰いで涙をながすクリスの父親の姿も胸を締めつける。
・結局クリスは、壊れてしまった家族の絆と愛をあと少しで修復出来たはずなのに、そうしようと思ったのに、それが出来なかった。そして父は悲しみに暮れた。
・なんて悲しいストーリーだろう。