『ダークナイト』

●ハリウッド映画はつまらなくなった、マンネリだ・・・そう言われて、もうかれこれ10年位経つのではないだろうか。確かに多くのハリウッド映画が本当に詰まらないものばかりだと感じている。商業主義丸出しで、客を呼べる俳優と、観客受けのいいパターン化されたストーリーの組合わせ。そういったものが蔓延している。スタジオの上層部で決定権を握るのは、映画ビジネスをマネーゲームにしてしまった、銀行や証券、アナリストなどの映画とは関係のない人達。こういう業界分析はもう言い尽くされているが、本当の事である。映画人が映画産業を一時とはいえ凋落させ、そこに取って代わってやってきて映画を支配しているのは金儲けに長けた連中だから。

●そんなハリウッドではありながらも、やはり映画産業の都であり、それが生まれた場所には俳優だけではなく、カメラマンも美術も、照明も、音楽も傑出した才能がどこよりも集まっている。優れた人材を集めて、彼らの力をいかんなく発揮させ、一つの作品を作りたい。そんな理想を叶えるには、多種多様な逸材をコントロールしてまとめ上げる監督の力が必要であるし、近視眼的な収益にある程度目をつぶる重役陣の懐の大きさも必要であろう。

●『ダークナイト』。直訳すれば”暗黒の騎士”だ。バットマンシリーズでありながら、始めて、タイトルからバットマンが取り去られたという非常に意味深い一作。

●映画を見始めれば、もう最初のワンシーン、ワンカットからそのクオリティーが尋常ならざるものだと気が付く。カメラ、カット、ライティング、演技、CGIと、スクリーンに映しだされる映像には、隅から隅までスキがない、世界トップクラスの映像技術がフィルムの中に超高密度で集積しているかのようだ。

●例えるなら、テーブルからイス、カーテン、床板から天井に至る空間に存在する全てを世界最高の芸術品で誂えた宮殿の一室のような映画とも言える。

●このハイクオリティーさに酔いしれ、脳が痺れるような感覚に心地よく溺れる。

●やはりハリウッドは凄い。これだけの映像作品を作り上げる力はハリウッドにおいて他には無いだろう。

●「007カジノ・ロワイヤル」にしてもそうだ、スタジオの虎の子であるタイトル、シリーズ物には、常日頃金勘定に五月蝿い連中も、収益、利益を度外視しても潤沢な予算を供給する。虎の子タイトルまでも愚作に貶めたのでは、もう立つ術すらなくなるからだ。バットマンもワーナーに取っては一切手抜きを許されぬ、失敗も許されぬトッププライオリティーのシリーズである。堕落したハリウッドの映画製作でも、その堕落を受入れることを許さぬ孤高のタイトルが幾つかある。その一つがバットマンであろう。だが、今回の「ダーク・ナイト」はそんな思惑すら断ち切り、更に高次な域にまで作品が昇華している。

●悪を滅ぼそうとする善、だが、その善は悪の対称とし存在している。絶対悪を極めんとするジョーカーと、そこに立ちはだかる善としてのバットマン。だが、バットマンは絶対善としては存在しえない、悪を無くすためには善の心があっても、悪を行使しなければならない。毒をもってしなければ毒は制することが出来ないというのと同じ。元々はエンターテイメントであった作品が、この「ダーク・ナイト」では人間の本性、真理に鉄杭を突き刺し、哲学的な難題をも観客に投げ掛けている。その難題に、脚本も執筆したクリストファー・ノーランが出した答えが「暗黒の騎士」であるわけだ。

●これ程までに重く、深い内容の作品が全米興行収入で既にスター・ウォーズを抜き、二位にまで達しているという。一位のタイタニックを越すのかどうかに注目が集まっているという。誰しもが否定できない程のクオリティーの作品であることは間違いないが、この重く響き渡るストーリーに、何故にアメリカの民衆がこれ程までに反応しているのか? スター・ウォーズのような面白さ、カッコ良さに対する熱狂ではない。タイタニックの様なスペクタクルと純愛に熱中しているというのでもない。この「ダーク・ナイト」は今在るアメリカの閉塞感、巨大な闇、それを形作ってしまった「自由の国アメリカ」という自分たちが信じてきた思想、嘘にまみれ堕落した民主主義に対する後悔の念を代弁しているのではないか? アメリカという国が、偽善の正義を主張していても悪を潰えない国になってしまっているのだと、一人一人が痛いほどに感じているのではないか。「暗黒の騎士」が現れなければ、悪はのさばり、今以上にアメリカという国の神経の末端、隅々まで浸透してしまう、いや、もう浸透してしまっている。そう多くの国民が感じているのではないか。「暗黒の騎士」は国家への絶望感を感じ始めている人々の心に半鐘の音を鳴り響かせているのではないか?

●映画としてのクオリティーは100年を越す映画の歴史の中でもトップクラスに位置する素晴らしさ。だが、それ以上に作品が持つ重く、難しいテーマが、観る者の心に雷を落とすかのようだ。

●2008年、ハリウッドが作りだした傑作でもあり、問題作でもある。

《2011/6/28 追記
NHK BSシネマのバットマン特集で3年ぶりに再見。
・何故バットマンはもっと強くジョーカーに対峙できないのか、その強さで二度とジョーカーが悪事を働けぬようにすべきなのではないか、なぜ真正面からぶつかってジョーカーを叩きのめし警察に突き出そうとしないのか。そんなむず痒さが映画をみていて襲ってきた。
・己の存在がジョーカーという悪を導き出したのだ、善があるから巨悪も生まれるのだという映画が差し出す哲学に則った演出なのだが、再見して、バットマンジョーカーに対する煮え切らぬ態度には疑問もわいた。
・ウェインは巨万の富を持ち、人知れず社会や人身を監視、コントロールする力さえももっているというのは納得できるのだが、ジョーカーがあまりに意図も簡単に警察組織や市の施設に潜り込み、大量の爆弾をしかけ、生活に苦しむ警官をみつけてスパイにし、どれもこれも実に都合よく、ウエィン社や市組織すらも敵わぬほどの悪行を繰り返すというのはバットマンに対比させるための演出とはいえ、話を作るためのご都合主義的部分が目に付いた。
ゴッサム・シティから逃げ出す二隻の客船に爆弾を仕掛け、どちらかがもう一方の船を爆破させなければ両方を爆破するという選択を人間に迫る部分は、かなり嫌らしい展開だが、多数決により相手を殺す事すらも決することができるのかという、アメリカの民主主義の根本を問い質すかの如き、際どく、厳しいシーンだ。諸刃の剣を突き付けられた人間、アメリカ、民主主義、これは極めて難しい判断を観る者にも要求する。その答えが、犯罪者が起爆装置を投げ捨て、善良な市民が起爆装置を箱に戻すという形で決着する。このシーンの意味するところ、結局民主主義も、人間が人間を裁く善悪も、多数決の原理も、そう原理と呼ばれ確固たるものと信じられてきたことが全て崩れ、近代社会の中で形成された原理といわれたものが原理などではなかったということを指し示している。
・《真実だけでは街を救えない。それ以上の何かが必要なんだ》
アメリカで大ヒットを記録したこの映画は、映画のクオリティーを越えた、何かがあったのだ。この映画アメリカとアメリカ人の心に悲痛の問い掛けを行っている。かって在ったはずの建国の理想、自由の大義、それをアメリカ人に問いかけている。それがボロボロに食い破られ、悲惨な状況になっているアメリカにまだ希望を繋いでいたい。それが殆ど無くなっている知っていても、まだそれがここには在ると信じていたい。それにすがりつきたい。そんなアメリカ人の憂い哀しみと願いがこの映画に宿っている。それがこの映画に人を引きつけた理由。そんなふうに思うのだ。