『カーテンコール』

●べたべたの作品タイトルである。まあそれでもこれが演劇とか映画を想起させることは間違いない。そしてそういったものの最後の場面を。

●出だしの代議士と女優の不倫スクープを撮ったというエピソードはあまりにも白々しい。その後に続く割としっとりとした映画の内容にまるでそぐわない。夜九時のテレビドラマのお決まりパターンそのものというかんじだ。ちょっと流行りの量産型の若い脚本家が良くやるような手垢のついた導入。

●そのスクープが原因で女優が自殺し、スクープを撮った香織(伊藤歩)が会社のなかでの行き場を失い、自分の故郷に戻りタウン誌の取材の仕事をする。んー、なにもこんな前置き無くてもよかっただろうにね。ココまでの導入展開は全部いらない、バシッとカットしてしまったほうが作品の質が上がるだろう。

●その後の話しは田舎に昔あった映画館に関わる人々の生き方、人生、苦悩といったところだが、そこに様々な要素を持込み過ぎている。下関は韓国とも近く、在日韓国、朝鮮人と呼ばれるひとも多かった。そこに存在していた差別。その差別をトンと行きなりストーリーに絡めるのだが、深堀はしない。親子の葛藤、子供を捨てた親、親元を離れ一人で生きている娘、親に捨てられて一人で苦労を堪えてきた娘。こういう風に書くと、なんだか沢山ググっと来るような話しが盛り込まれているのかと思うが、そうではない。全部が表面的である。

伊藤歩が孤軍奮闘して、昔下関にあった映画館とそこでかって働いていた幕間芸人の過去から現在までを追う。まあその動機なんていうのもちょっと不明瞭。

●田舎のタウン誌の女性編集長の尊大な態度。これもかなりステレオ的、田舎の小都市のタウン誌でこんなにふんぞりかえってられるような女性編集長なんて居ないんじゃないの?

●と、なんだかマイナス点の羅列だが、伊藤歩の演技はそこそこ良かった。映画館の隆盛から衰退までを語るストーリーは悪くはないし、父と娘、家族、そして差別など取上げたテーマ一つ一つは良いのだけれど、ただ横にならべて時系列に繋いだという感じしか残らない。

●だから、感動だとか、心を揺さぶるものが映画から伝わってこないのだろうなぁ。なんとかエピソードを色々組み込んで、なんとか受けるようにと狙った、脚本の日和見過ぎというのが大きな失敗の原因だろう。

佐々部清という監督は「陽はまた昇る」で朴訥ながらもいい作品を撮ったのだが、その後は話題作を監督するも、どうもパッとしなかった。「半落ち」も「出口のない海」もこの作品と同じように中途半端で、ハッキリしない落ちの作品だった。数作品作ってきて、最近ようやく良い感じの映画を撮るようになってきたと聞く。「夕凪の街 桜の国 」も「結婚しようよ」も未見ではあるが、古いものよりも最近のものを観たほうが良いようだな。

●この映画、製作委員会に名前を連ねてる会社がちょっといかがわしいが、この中途半端さもその辺からの変なプレッシャーが原因だったりして?

●悪い脚本の後に良い映画というのはまず無い。良い脚本の後にこそ、良い監督と良い映画は生まれる。これはやはり悪い脚本の上には良い作品は生まれないという実例かもしれないな。