『復讐するは我にあり』

今村昌平が借金やら債権問題やらで苦労した後、11年振りに撮影したこの映画は1963年から1964年にかけて起こった5人連続殺人事件 西口彰事件がベースとのこと・・・・

●当時の映画賞受賞が凄い。まるでタイタニックとか、もののけ姫級の受賞ではないか?

・53回キネマ旬報ベストテン1位 監督賞/助演男優賞助演女優賞小川真由美

・第22回ブルーリボン賞 作品賞/監督賞/助演男優賞助演女優賞倍賞美津子

・第3回日本アカデミー賞 最優秀作品賞/最優秀監督賞/最優秀脚本賞/最優秀助演女優賞小川真由美)/最優秀撮影賞

●今村監督の久々の作品ということで、映画界のご祝儀受賞もあったのではないか?と思ったが、映画を見れば、なるほどこれだけの賞を受けるに足る作品だと納得した。

●この作品、海外での評価も高いと聞く。確かにこの映画、面白い。2時間20分の長尺でありながら、弛れることなくストーリーに魅入られる。何の深い意味もなく、次から次へと関わった人を殺していく主人公の態、それを演じる緒方拳の強烈な演技。脇役となる登場人物も曲のある個性は揃い。この映画は実にエンターテイメントしている。映画の面白さというものがぎっしり詰まっている。

●監督のドスケベ本性丸出しの濡れ場もかなりエロチック。若かりし頃の倍賞美津子小川真由美のヌードとベッドシーンも艶と淫があり、これは役者の良さもあるが、やはり監督のエロ趣味が功を奏していると言えるだろう。

●何故こんなに面白く感じるのか?予告編にもあったが、「本音丸出しで生きた男」という表現が実に的を得ている。日常さまざまな物に抑圧されている人間の不満、閉塞感。そういったものが、犯人の強烈な個性、好き勝手な生き方に対して憧れのような部分を見い出しているのかもしれない。

●こんな風に思うがまま、理性も何もとっぱらってやりたいように生きれたらと・・・。そういった部分でこの映画は観る物の心の中に潜んだ解放の感性に訴える部分があるのかもしれない。

●それだけではなく、やはり今村監督の演出、ストーリー展開、そして役者の名演、そういった物が完成度の高い映画となって人々を魅了するのであろう。

●しかしだ、いつも思うことだが、実話を映画にする場合、特にそれが人の死や社会的な問題である場合はなおさら、映画としての脚色、演出が実話の真実の部分からどれだけ乖離していいものかという疑念に突き当たる。実話を題材とした作品は、良くも悪くもその実話を足枷として嵌めなければならない。その足枷を完全に無視すれば自由なフィクションを創造できるかもしれないが、それをしていい場合とそうでない場合。足枷を外した時に影響を受ける人のことを製作陣は心して考えなければならない。
・例えば映画化された「コンクリート」などは、足枷を外したどころではない、真実をエロ趣味と金儲けのグロ趣味に置き換えて、真実の場所に居た人々への配慮も思いも何も考慮することなく作った最低最悪の映画だ。

●この映画は確かに面白い。完成度も高い。今村監督はやはり名匠だと思う。出演している役者の演技も素晴らしいと思う。だが、これは5人もの人の命を次から次へと深い意味も無く奪った、連続殺人を元とした話しではないか? 善人ぶったことを書いても意味がないが、この作品には被害者側への配慮というものはほぼ無い。この殺人事件の犯人と被害者は、映画の中では完全に映画娯楽の為の部品として晒されており、特に被害者の人生への哀悼は微塵も感じられない。

●そこが、観ていて気になる、引っ掛かるところだ。

●この映画は事件の悲惨さ、酷さをなんら訴えようとはしていない。この奇特な事件の、その奇特さを顕著に描き、通常では考えられない犯人の行動を、言ってみれば面白く映画化している。犯人の成長の背景や、殺された人々の生活の様子などまで詳しく調べた上での映画化ということだが、監督とこの映画の製作陣は、この凶悪事件をエンターテイメントのモチーフとして利用しているのであり、この事件を非難したり、犯人の異常さを焙り出そうとしたり、なぜこんな事件を起したのかという原因を突き詰めたり、そういった手合のことを一切しようとしていない。

●この映画は実際に犯人が居たという温泉でのロケが行われ、実際に殺害が行われた場所で殺害シーンを撮影したという。実際の事件から20年近く経過してからの映画化ではあるが、殺された被害者の遺族、関係者はこの映画をどう思ったのだろう、どう感じたのだろう? 佐木隆三の原作では、最後に犯人は罪の深さに目覚め悔い改めるということだが、映画の中での犯人は最後までふてぶてしく、自分の罪を悔い改めようとはしない。俺は俺だという態度を取り続ける。この描き方は遺族に対するなんらの哀悼にもなっていないではないか。

●この映画は本当に面白い、見事な作りだ。今村監督の映画監督としての技が存分に注ぎ込まれている作品だ。数々の”映画”賞を受賞するのも頷ける。だが、それは悪魔で”映画”という部分でだ。”映画”としては優れていても、この映画が生まれた背景、元となった残酷な事件、そういったものへの配慮が殆ど欠落して、事件を題材としながらも、事件そのものは向こうに放りだしてしまっている。その部分が非常に引っ掛かるのだ。

●ある意味、この映画の主人公はアンチヒーロー的に映画の中で作られて演出されている。だが、それでいいのか? この映画を観て、この事件の悲惨さや残酷さ、殺された被害者の無念さ、残された遺族の哀しみは、まるで伝わってこない。この映画はそういうことを描こう、伝えようとして作られていないのだ。世にも稀な、面白いストーリーとしての部分のみが映画化されているのだ。

●ここまで事実の部分を放りだして、ストーリーのみを使って映画化したのはある意味、今村監督の凄さであり、才覚ある狂人ぶりである。

●「復讐するは我にあり」という言葉と「遺族」「被害者」という言葉を絡めてネットの世界を検索すると、実に多くのページがヒットする。殆どが殺人事件、凶悪事件の被害者への対処の在り方というものを論じているページだ。事件が起こってから40数年。映画化されてから約30年の時が経過している。今となってはこの映画の元となった事件も、過去の事件の一つであり、この事件をリアルタイムで見聞きしたような人でなければ、敵視の中の一つのトピックスでしかないのかもしれない。

●実話を映画化するということ、その重さ、真実に関わる人間への、映画を製作する人間の配慮。そういった点では、かなり異を唱えたくなる作品である。

●DVD特典映像特典に「シネマ紀行」というものがあった。今村監督のインタビューも織り交ぜての特典映像だが、女性レポーターがこの事件の起きた場所、ロケ地などをまるで温泉地の観光案内のごとく紹介している。こんな映像を特典として付けるとは・・・このDVDをプロデュースした人間も会社も、やはりこの映画の背景にある真実の部分をまるで考えていないという証しのような特典映像だ。これだけの凶悪殺人事件を観光案内でもするかのような映像を作って紹介している。

●やはりこの作品の製作に関わった人間は、何か大きな間違い、勘違いをしていると思うのだ。売れるものを作ればいいのだという、勘違いを。事件の元に横たわる悲劇を殆ど考えていないという大きな間違いを。

●「復讐するは我にあり」・・・その言葉は、復讐は神が行う、人間が行ってはいけないという意味をもっているという。この映画の製作に関わった人々は、映画のタイトルの意味をどう考えたのだろうか? 何も考えなかったのか? そんなことを思ってしまう。

●まあ、昔の映画を取上げて、ここまで書くのもどうかという気もするが・・・・2008年の今、この作品を観て思った、リアルな気持ちである。