『西の魔女が死んだ』

●『西の魔女が死んだ』は児童文学のバイブルともいえる梨木香歩のロングセラー小説・・・・・らしい。

●「西の魔女が死んだ」というタイトルすら聞いたことも無かったし、この原作が児童文学の中では超ロングセラーでバイブルとまで言われてるなんて・・・・何も知らない分だけフラットで純粋な気持ちでこの映画に触れられるわけで、それはプラスとなっているかな? 前向きに考えれば。

●登校拒否になった孫娘が夏の間、田舎に住むおばあちゃんの家に預けられることとなる。そこで魔女修業と称しておばあちゃんは少女に生きていく上で大切なことを少しずつ、優しく教えていく。

●そういえば子供の頃って、夏休みに「暫くおじいさんの家に行って遊んできなさい」なんて親に言われて田舎の親戚の家に一人で送りだされ、2週間とかそこで暮らした記憶がある。親にしてみれば、夏休みでプールに行ったりカブト虫取りをしたり、魚釣りをして遊びまくり、家に帰ってくれば「腹がへった」ばかり言う子供の面倒をみてるのがいい加減うんざりしてきて「ちょっとおじいちゃんの家にでも行って来なさい。その間、私はのんびりできるから」的な所も多分にあったと思う。だけど、子供にしてみれば、田舎の家に行くことはワクワク体験であり、おじいちゃんやおばあちゃんも、孫にいろんなことを教えてくれた。トンボの上手な取り方とか、野山の歩き方だとか・・・そういうのが子供の情操教育には非常に役立っているのであろう。

●おばあちゃんの家に行ってからの、まいとおばあちゃんのやりとりは実に素敵だ。裏山で野苺を積んだり、ジャムを作ったり、毎回色んなハーブが入っている紅茶も美味しそうだ。イモムシを除ける為にハーブを煎じた水を草に掛けるとか、夜ぐっすり眠れるように玉葱を部屋に置くだとか、昔両親や祖父母から教えてもらった小さな生活の知恵が「うん、そうそう、そういうことやったよね」って、懐かしく思い出される。

清里で撮影されたというおばあちゃんの家と、その周りの自然。山の中のちょっと青々とした草の香と、しっとりとした空気の感触がスクリーンから肌に伝わってくるかのようだ。そうだよなぁ、山の方の家ってこんな感じで、朝起きると気持ち良かったんだよなぁって、これも懐かしく思い出した。

●西の魔女、おばあちゃん役を演じたサチ・パーカーの存在感は凄い。この人がシャーリー・マクレーンの娘さんというのも驚きだ。たどたどしさのちょっと残る英語っぽい日本語で孫娘のサチに静かに語りかける言葉は、優しく温かみに溢れている。このキャスティングは素晴らしい。(最初はおばあさん役をシャーリー・マクレーンにオファーしたが、年齢と言葉の事もあり、逆に自分の娘であるサチコ・パーカーがどうだろうと紹介されたということである。それがこの素晴らしいおばあちゃん役となった。これも映画の奇跡か。)

●少女のまい役をした高橋真悠も自然な感じで上手い。キラキラした目といかにも純粋で真っ直ぐといった子供の姿をきっちりと表現している。仙台のモデルエージェンシーに所属し、ダンスユニットでも活躍、CMなどにも結構沢山出ているというが、芸能界にスレたような感じが全然しない。まっさらな本当に実在するこの役のさちそのものという感じで好感が持てる、

●この映画には懐かしさがある、そして優しさと温かさが染み込んでいる。観ていて心が慰められるような、もう一度昔のあの頃に戻りたいと思うような、夏に行ったあの田舎の家に行きたいと思わせるような、そんな心の琴線をポーンと弾いてくれるような優しさがある。そしてそれがとても懐かしく心地よい。

●まいは学校で女の子同士のグループに入れなくなって、仲間外れのような状態になり、登校拒否となる。まいはその話しをおばあちゃんにしっかりと説明して「だけど仲間外れにした友達は悪くないの」という。

●映画から受けた感じからすると、まいが登校拒否で悩んでいるというような深刻さはあまり感じなかった。それよりも田舎のおばあちゃんの家で今まで知らなかった新しい事を色々教えてもらって、その度に目を輝かせて嬉しがっている姿の方が印象的で素敵だ。

●話しが余りに単純になりすぎるかもしれないが、学校での仲間外れ→登校拒否→おばあちゃんの家という流れではなく、そのまま夏におばあちゃんの家にいって色んな体験をして少しずつ成長していくという話しでも良かったのではと思うのだが、やっぱり必要だったのかな? 仲間外れと、登校拒否という葛藤が。

●最近の邦画にはことごとく、こういった子供同士のイジメだとか登校拒否だとかとが取上げられているが、自分の子供の頃もそういうものが無かったわけではないのだが、なにか今とは別種のもので、陰湿さとか問題の深さは今のようではなかった気がする。現代は大人から子供まですべて歪みが蔓延してしまっている。

●おばあちゃんの家の近所に住むゲンジに対して、「もう絶対にあんな人嫌い、おばあちゃんと住んでいるこの気持ちの良い世界になんであんな人が入り込んでくるの?」と少女特有の純粋さ、直情さから発せられる拒絶、禁忌、嫌悪の感情演出がいい。この位の年の女の子に見られる、ダメなものはダメ、絶対に受入れないという、可愛らしさの中に潜んだ頑なさ、強情さにスクリーンを見ていて首肯いて納得してしまう。少女の気持ちの揺れをよく押えて、映画の中でしっかり表している。

●いかにも少女に完全拒絶されそうな、汚らわしい大人の男の存在を木村祐一がゲンジとして見事に演じている。演じているというより地か? ホント、むさくるしいイメージ持ってる。だけど、おばあちゃんが死んだとき、そのゲンジの不器用な優しさを知り、まいはゲンジに対する嫌悪感から解放される。そしてまた一つ成長の階段を登る。こういったキチンと階段を一つ一つ登っていくような映画のプロットが上手い。

●美しい自然の中で、優しく温かいおばあちゃんと暮らすことで、本来の自分を取り戻し、人として知るべき本当の事象を一つ一つ確かめるように学んで行く、そんなまいの姿に子供が大きくなっていくときに感じるような、明るい希望の光を感じる事が出来た。

●児童文学の映画化だが、子供がこの映画の良さをわかるだろうか? 子供はアニメやSF、派手なアクション物ばかりを好むものだから。こういった静かで淡々と抑揚なく進む純文学のごとき映画は子供は好まないし、理解しようともしないだろう。この映画は昔を思い出し、昔子供だった大人が、何か忘れていたものを思い出す、そんな成長した大人向けの映画だと思う。

●原作も児童文学とされているが、このストーリーからすれば、児童よりも子供の頃の気持ちを忘れてしまった大人にこそ響くのではないだろうか?

●作品の良さが伝わって、徐々に全国で公開され、ロングランになっているようだ。良いことである、いかにもアスミック的な良心的な作品だ。アスミックにはもっともっとこういう作品を作ってもらいたい。

2009年4月5日追記

青柳陽一氏の『ドキュメント『岩魚が呼んだ―岩魚と加仁湯交遊録』にこの映画でおばあちゃん役を演じたサチ・パーカーさんのことが書かれていた。まだ学生のころ父親の関係で日本に滞在し、父親と交友のあった青柳氏の薦めで加仁湯でアルバイトをしたという話。金髪の若い外国人なのに日本語はペラペラで、山奥の温泉にくる田舎の男たちが目を丸くしていたという話。自由奔放に生き生きと加仁湯で過ごした話などがまぶしい。そんなサチコさんもこれだけ歳をとったのだなぁと、しみじみ時間の流れを感じてしまった。