『アクロス・ザ・ユニバース』

●「ハイ・フィデリティ」や「あの頃ペニーレイと」の様な音楽を芯として音楽をテーマとした作品かと思っていたが、全くの予想外。ビートルズの曲、その音楽がもちろん芯にはあるが、そこをベースとして構築された社会派のストーリーは映像とともに強烈なインパクトを持つ。これは素晴らしい一作に出会えた。

●割とその筋での評判は良かったので見てみようとは思っていたが、事前の情報収集は極力避けた。最近は映画のPRの重要な位置を締める公式HPだが、これは映画を観る前に見る、と観た後で見る、の二つの利用方法がある。作品PRする側としては映画を観る前にHPを見て欲しいとなるだろうが、なるべくフラットな頭の状態で映画を観たいから、自分はあまり事前にHPを見るということはない。映画を観た後での情報収集や役者の確認などに使うことが多い。

●そんな感じで、この映画もビートルズを崇拝、賞賛するような映画じゃないかと思っていた。タイトルの「アクロス・ザ・ユニバース」にも引きつけられた。自分が中学生の頃、学級新聞で「アクロス・ザ・ユニバース」の対訳を手書きの新聞に載せたことがあった。あの頃、この歌詞が凄く気に入っていたのだ。まだ幼く子供だったころインスパイアされたジョン・レノンの言葉。中学生の自分はこの素晴らしさを少しでも他の人に伝えたい(自分はこんな素晴らしいものを知っているんだという顕示欲もあったであろう)という気持ちで勝手に新聞のスペースを割いて対訳を載せたりしてた。今思いだすと、穴に潜りたいような恥ずかしさもあるけれど。

●また、「カム・トゥギャザー」はあの頃買ったLP「アビィ・ロード」に入っていた歌詞カードでは”対訳不能”と書かれていて、「カム・トゥギャザー」はまだ世の中を大して知らなかった自分にとってちょっと神秘的で、未知の場所にあるような、哲学的な曲に思えていた。

●この「カム・トゥギャザー」だが、今回映画の中での日本語訳は実に素直でナチュラルだ。言っていることが非常に良く分る。なんであの頃この曲を訳した人は「対訳不能」なんて逃げ方をしたんだろう? 今からみればこれも時代の古さを感じる一つの出来事だ。「カム・トゥギャザー」にあるような不確定な思想とかマインドを当時はどう表現していいかわからなかったのだろうな。この曲を訳した人は、目茶苦茶で繋がりがなく、意味なく羅列されているような英語に、これをどう日本語で表現すべきか分らない、出来ないというような解釈をしたのであろう。今から考えれば奇妙なことだが、当時はこう言った意味の通じない、言葉の遊びをしているような歌をまともに受入れる素地が日本の社会の中にもなかったのではないだろうか? 今よりも窮屈な時代だったのかもしれない。(今は別の意味でそれ以上に酷く窮屈な時代だろうが)

●全体を見れば、ビートルズの曲をフィーチャーしているが、ストーリーの内容としては1970年の『THE STRAWBERRY STATEMENT』(いちご白書)に近いと言えるであろう。60年代の青春。ヒッピー文化、ベトナム戦争反戦、反体制、そういったものは全て権力側の組織的な力によって押し潰されてきた。日本も同じだ。1980年代から21世紀の今に続く世界は、そういった反動を押さえ込まれ、抵抗を諦め、従順し、ことなかれに生きることを良しとしてしまった力の失われた人間の上に成り立っている世界なのかもしれない。

●この映画、作品は青春時代の恋の辛さ、悩みを語り、ビートルズの歌で若者の思想を見事に伝え、斬新な映像、目を見張る演出を見せながら、ビートルズの曲オンリーで構成するという大胆さでありながらミュージカルとしても際立っている。そして、あの時代の熱、反体制、絶望、その中から見いだす希望、とてんこ盛りのモチーフが見事に融合されている。圧巻である。

●特に、ミュージカルの部分はあまりミュージカル、ミュージカルしていない。登場人物が歌うビートルズの曲は実に自然にストーリーに調和している。まるでこのストーリーに合わせて書かれた曲か?と思うほどだ。(実際は曲に合わせてストーリーを書いたのだろうけど)

●これは前にも書いているが「ドリーム・ガールズ」や「シカゴ」など最近賞を取ったり、評判になったりしている”ミュージカル”と呼ばれるものは大体自分はミュージカルと思っていない。声を張り上げてガーギャーと味も深みも無く叫んでいるのを歌っているとしているような作品はミュージカルなんかじゃないと思っている。観ているだけで頭がガンガンに痛くなってくるようなミュージカルなんてあるか!と言いたい。その点でいけば、この「アクロス・ザ・ユニバース」は役者がそれぞれの場面でキチンと”歌”を歌っている。その詩を曲として人間の喉と声で奏でている。だから心地よさがある。ミュージカルっぽくないミュージカル。それは歌われる曲が自然にストーリーの中に溶け込んでしまって曲だけが目立たない、ナチュラルに響くからであろう。そういう意味でもこの映画は素敵だ。

●絵を見ていて「これって『タイタス』と同じ監督か?」と思ったがやはりそうであった。この唯一の個性とも言える映像はこの監督だけが為しうる技である。日本で言えば『嫌われ松子の一生』下妻物語』の中島哲也監督の映像美に通じる。One and Onlyの個性だ。

●監督ジュリー・テイモア。1952年の生まれというから2008年の今は56歳にもなる女性の監督である。「タイタス」のある意味ぶっとんだ演出には驚いたが、舞台演出出身の監督であるが、映画は舞台っぽい演出であるのだけれど、舞台をカメラで撮っているというものではない。その辺りが三谷監督などとは一歩も二歩も違うところだ。そして今回の「アクロス・ザ・ユニバース」はさらに舞台っぽさが消えている。舞台から抽出したような演出だが、監督とカメラの目は舞台を見ている目ではない、役者の演技をカメラのフレームで捉えている。だから違和感がない。舞台上がりの監督が陥る舞台をカメラで撮影しているような愚かさはまるでない。

●若い感性だとか、若さの持つ力、未知の表現力・・・なんて言葉が、若い監督なんかをもてはやす為に使われている事が多いけど。(監督だけじゃなく、芸術家、ミュージシャン、なんでもかんでもアーティスティックなことをする人に対してって感じか)この監督ジュリー・テイモアの作りだす映像、映像美、演出・・・そういったもの全てが、けたたましく斬新だ。新鮮を越えて全く、完全な新しさだ。今で見たことの無い映像だ。それを作りだしているのが50歳をとうに越えた女性監督なのだ。人生のキャリア、経験、知識。映像というもの、芸術というものが、人間が生きてきて培ってきた沢山のそういったものの積み上げのなかから全く新しいものを作りだしている。その見事なまでの証明でもある。威勢がイイだけの若年者、己を何も知らない突っ走るだけの若さにこの映画の完成された斬新さが作れるのか? 青々としたトマトにはそれなりの新鮮さがあるだろう。だが、きっちり太陽光線を吸収し、熟し、熟しても実を崩さず、その成熟を内部に為留めているようなトマト、それのみが作りだせる成熟した新しい味。この監督にはそういうものがあるだろう。

●鼻息だけの荒い、実力未熟で叫ぶオクターブだけを上げているようなガキ監督にジュリー・テイモアの新しき映像を作りだせるか? 年寄りなんかのやることは関係ない・・・などと言っている若造や、それを持ち上げる商業プロデューサーに、じゃあこの監督に敵うのか? と突きつけてやりたい映画でもある。

●最近洋画をあまり観なくなってはいるが、間違いなくこの「アクロス・ザ・ユニバース」は今年のベストに入るだろうし、将来に渡って、自分の勧める素晴らしい1作の一つであり続けるだろう。

●この作品のプロダクションはREVOLUTION STUDIOだった。REVOLUTION STUDIOは骨のある作品、主張のある作品を作り続けているので好感が持てる。80年代にもアラン・ラッド・Jrが興したLADD COMPANYの様に気骨のあるプロダクションがあったが、REVOLUTION STUDIOにはLADD COMPANYのような雰囲気を感じている。かっての某スタジオの日本駐在社長だった人がアメリカに戻ってREVOLUTION STUDIOの設立に参加したと聞いているが、今でも頑張っているのかな? もっと日本に居るときにいろいろと話しをしたかった。

●DVDになったら早くもう一度観たいと思う。素晴らしき1作だ。