『リリイ・シュシュのすべて』

●書店の本棚で雑誌「CUT」2008.JULYを見た。表紙は蒼井優だった。幼く子供っぽい印象だった蒼井が驚くほど大人の女性の顔で写っている。ピラピラとページをめくる。
【特集】蒼井優は何が違うのか? 

インサートされた写真もずいぶんイメージが大人っぽく、色っぽくもある。今までの蒼井優とは別人のような写真だ。撮り方でいくらでも女性は変わるが、蒼井も今年で22歳、大人の女性の雰囲気は有って当然か。そのほかにも「歩いても 歩いても」の是枝監督や阿部寛などのインタビュー記事、「クライマーズ・ハイ」の堤真一堺雅人のインタビュー、「インディ・ジョーンズ」特集など、最近のこのブログで書いた映画の記事もいろいろあり、めったに映画雑誌なんて見もしないのに、CUTは値段も安いし!まあこの内容ならということで寝る前に読んでみようかと購入。

●特集記事は蒼井優の主演映画『百万円と苦虫女』(蒼井の主演は「ニライカナイからの手紙」以来これで”ようやく”二作目である)公開前のPR絡みではあるが、これまでの蒼井の出演作の思い出やエピソードなど初耳の内容が多く結構面白い。記事を読みながらふと考えた・・・そういえば蒼井の初出演作品は『リリイ・シュシュのすべて』だったんだ・・・・。

●『リリイ・シュシュのすべて』に蒼井優が出ていたというが、どこにどんな役で出ていたのかもまるで頭に残っていない。ホントに蒼井が出ていたっけ? どこにいたっけ?そんな感じだ。自分にとって『リリイ・シュシュのすべて』という作品はそれほどまでに何も残っていない印象の薄い作品。

●この映画の公開は2001年。もう7年も前の話だ。自分でも不思議に思うくらい、記憶の中にこの映画が残っていない。観た!という記憶はあるのだが、どんなシーンも、どんなセリフも何一つとして自分の頭の中に浮かび上がってこない。
まるでだ・・・・。
自分は本当にこの映画を観ていたんだろうか?

●岩井監督作品は好きな方だ、だがなぜこの作品はこれほど記憶が無いのだ? たぶん、2001年当時自分はこの作品を拒否していたのだろう。まともに観ても、ストーリーを追いかけてもいなかったのだろう。たぶんあの頃、この作品はそのくらい受け入れる気がまるでしない映画だったのだ。

●2001年当時こんなブログを書いていたら「こんな暗くて、陰惨で、気持ちが落込むような映画は好きになれない、こんな映画は嫌いである。映画を観て気分が悪くなるような作品は否定する」なんて事を書いていたかもしれない。7年前の自分は「こんなのわけのわからない作品どうでもいいや」と思っていたのだろう。それはきっと、この陰険な内容に対する嫌悪感のあらわれであったのかもしれない。

●少しネットでこの映画のことを調べていたら「そういえば、映画の最初の方でいじめにあってオナニーを強制させられるシーンがあったな」と頭のなかに浮かんできた。嫌悪感を伴う非常にいやなイジメのシーンだ。だが、その時思い出したシーンはそれだけだった。きっと自分はこのシーンを見た辺りで「こういう映画は嫌いだな」「こんな映画見なきゃよかった・・」と、この作品を拒絶したのだろう。そして、その後の2時間近くを斜に構えて映画の内容も、絵も流しで見ていたのであろう。だから、何も残っていないのだ。そう、7年前自分はこの映画を端から否定していたのだと思う。そして映画そのものを見る目すらも閉じてしまっていたのだろう。

●「14歳のリアル」岩井俊二はサブタイトルをそう付けた。14歳の悩み、苦悩、衝動、狂気、残酷さといったものを描いたと言っている。

●あるサイトではこの映画を「14歳の地獄絵巻」と書いていた。きっと自分は初めてこの映画を見たとき、その地獄を、痛み、苦しみとして全く感じとれなかった。受入れる気にもならなかった。この映画の中にある、いじめ、援助交際、レイプ、同級生の殺人・・・すべてがワザとらしい作り物の世界の事に見えていた。自分がそういう境遇や体験を通り越してこなかったためでもあろう、自分にとってこの映画の世界は、誇張され、脚色、演出された嘘の世界に見えていた。現実性を感じなかった。作り物の暗い陰惨な映画としてしか捉えていなかった。きっとそうであろう。

●自分にとって『リリイ・シュシュのすべて』なにかモヤモヤした一作になっていた。高いお金を払って海外ツアーに参加したのに、ちょっとミスして見忘れてきてしまった観光名所だとか、エンドロール最後に面白い映像が入っていたのに、途中で席を立ってしまってそのシーンを見逃してしまった映画だとか・・・(よくあるなこれは)。まあ、そういう感じかもしれない。なんとなく歯痒いもの、スッキリしないものとして残っている映画だ。だから、この機会に改めて『リリイ・シュシュのすべて』を観てみようと思った。一度きちんと見直しておこうと思った。あの映画ってなんだったんだろう? なんで殆ど中身を覚えていないのだろう?そういったモヤモヤを取り除いておきたいと思った。7年の時間の中で自分の映画の見方、感じ方も変化している。なんらかの成長もしているだろう。

●この映画はほぼ初見に近い。ストーリーも登場人物も会話も殆ど何も覚えていないからだ。だから、そういうつもりで一回目の観賞をした。

●前置きがずいぶんと長くなった・・・・・映画について書こう。

●この長い映画を再見して、きっと観ているうちに記憶が呼び覚まされたされたのだろう。「あ、この絵は見たな」と思うシーンがあった。”西表島に到着したシーン””伊東歩が髪の毛をすべて切り落としてクラスに入ってくるシーン””コンサート会場の外で人が刺さされるシーン”それらはすべて断片的な映像として記憶が戻ってきただけであり、この映画と繋がった記憶ではない。この映画を観ようと思ったときも頭の中には浮かんでこなかった深いところで眠っていた記憶だ。なぜそのシーンが記憶の箪笥の中に仕舞い込まれていたのかはわからない。

●映画が始まってすぐ、美容院のTVにバスジャックのニュースが流れる。ニュース自体は映画用の作り物だが、これは2000年に起きた西鉄バスジャック事件のことだと見ていて分かる。そして蓮見の家のテレビでもこのニュースが流れ「まだ捕まってないのか、こんなの死刑だ」という会話が出てくる。その時ふと思った。「そういえばついこの間起きたバスジャック事件って・・・」DVDの再生を止めてネットで最近の事件を確認した。
”2008年7月16日JR東海バス名古屋発東京行き高速バスが山口県に住む少年にバスジャックされた”・・・少年は14歳
西鉄バスジャック事件の犯人は17歳だ、その原因の一つはいじめであったとのことだ)

●そして、つい昨日19日にも3連休の最初の日に痛ましい事件が起きていた。高校生の少女が寝ている父親をナイフで刺し殺したという事件だ。・・・・刺し殺した女子高生は15歳

●奇妙なめぐり合わせ。7年振りに「リリイ・シュシュのすべて」を見直そうと思ったその矢先、「14歳のリアル」を、その悩み、狂気、残酷さを描いたという作品を見ようと思った2008年の7月、その"14歳の世代が続けて大きな事件を起こした。

●7年前に自分には感じられなかった「14歳のリアル」が2008年の夏、初めてリアルに感じられた。7年前の自分は「14歳のリアル」なんて非現実的だ、妄想だ、と考えていたのに、今、14歳という世代が凶悪な事件を立て続けに起こしている。引き寄せられるように再びこの映画を見ることになる。それもまた、一つの不思議な感覚の共鳴なのかもしれない・・・・・。

●インターネットの掲示板上で一般参加者も自由に書き込める状態で展開していった「リリイ・シュシュのすべて」という小説。この映画はそれをベースとして形成された。だから、そのBBSの書き込みと映画は切っても切り離せない。だが、映画という作品は単体として人の目に触れる。この映画は単体の作品としてこれを知る人の目に映るだろう。単体としてこの作品そのものを見たなら、ストーリーの訳のわからなさは尋常ではない。それでも映像の巧みさで14歳が抱える闇、その”地獄”は伝わるだろう。だが、ストーリーとしての理解しがたい部分はこの映画の多大なるマイナス要素だ。BBSを知り、そこにリアルタイムで参加した、または後から内容を知った人であるならばこの作品の理解は進む。(今回の自分のように、今はネットで過去のテキストも読め、この映画のベースにある基本了解事項みたいなものを知ることはできる。だが、それで理解がすすむのであれば、映画に表されない別媒体を読まなくては、知らなくては映画を理解できないのであれば、それは映画の敗退であり、失敗作でもある)。この作品が岩井俊二の代表作の一つとして、今後多くの人がDVDのようなパッケージメディアで作品を観るであろう。しかし、過去にあったBBSやそこで交わされた会話、ストーリーを全く知らない人にとって、この映画は分かりにくいというしかない。

●斬新な試みとして行われたネット場に開放されたBBS小説と、そこからの映画への展開。それはその時そこに参加した人以外にとっては、今となっては過去だ。映画は映画そのものとして評価されるべきだ。作品の公開から年月を経た今、この映画は映画単体としては、明らかな渾沌とした作品であり、とにかく、裏に潜んだモチーフを知らなければ理解が出来ないような展開が多すぎる。これほど不可解を内包していては、作品として伝わるべきものも伝わらない、未熟な映画と言ってもいい。

●しかし、そういった映画自体の理解に辿り着けなくても、この作品には物々しいほどの衝撃が宿っている。それが岩井流の映像スタイルなのであろう。実際自分も今回一度目の再見では良く分らない部分が多かった。改めてネットでこの作品の情報を調べ、そしてネット場に散在するさまざまな情報を知り、それを整理した後、もう一度観てようやく大体が分ったという気がしている。

●2000年当時、インターネット・ブラウザはネットスケープであり、それを立ち上げると出てくる画面はyahooだった。そしてあの時yahooのトップバナーに「リリイ・シュシュのすべて」というゲートが貼られていたことを思い出す。「岩井俊二は今度はこんなことをしているのか、新しい作品PRの取り組みだろうが、こういうのはどうも好きになれないな」そんな風に思って、自分はそのバナーを一度たりともクリックしなかった。その裏に展開されるネットのなかで彷徨う匿名の書き込みや、不満の噴き出しなど見る気も読む気もしなかった。そしてそれで良かった。そんなコミュ二ティーの中から映画を見ようなどという気持ちには到底なれないからだ。

●映画は芸術かエンターテイメントか? 良く言われる言葉だ。『リリイ・シュシュのすべて』は社会性の高い問題を取上げている。だが、監督の岩井俊二はこの映画の中で、この映画の表現手法では、何も訴えてはいない、何も変えようとはしていない。そう感じる。こういった社会性の高い作品、いやそうでなくても映画という表現手段を使う場合監督は何かを訴えたい、訴えることで問題を提議したい、訴えることで変わることを推し進めたい。そういった主張が表に出てくるものだ。だがこの作品は何も主張していない、何一つも変えようとしていない。岩井俊二は見事な映像、美しい映像で14歳のリアルを切り取って見る者に提示している。それだけで、この映画の中に監督の強い変化の主張は感じられない。岩井俊二は映像表現に徹している。映画という媒体でいかにして14歳のリアルを表現するか、それに徹している。14歳がこうなんだから、これは問題だ!とか、子供たちがこんな状況なんだ、社会を変えなければだめなんだ!というような主張も微塵もない。徹底した映像表現、映画としての芸術性の追及、岩井俊二の映画はそこに集約している。『リリイ・シュシュのすべて』を見た人間はこんなふうになってしまった今の世の中をなんとかして変えなければ・・なんて思うことはないだろう。たぶん、きっとこれが現実なのだなと、肩を落とし、諦め受入れるだけなのではないだろうか? そこから見ればこの映画の伝えるものは、果てしない絶望でしかないのではないだろうか? 無力な諦めでしかないのではないだろうか?

●余りにも美しい問題作だ、何も主張しない問題作である。岩井俊二は映像として表現するだけであり、見て考えるのは見た人である、自分は何も言うことはない・・・そう言っているような気がする。

●ただ、どうしょうもない絶望の果てに、ほんの少しだけ、本当に微かに、まるで砂つぶの一つよりももっと小さい位に、それでも完全な絶望ではないんだ、消えてしまいそうなほど小さいけれど希望は微かに残っているんだ・・・この映画を見終えるとそんな部分も感じられる、それが救いでもある。

●一回目の再見のとき、画面に打ちだされる文字は殆ど流しで見ていた。この文字がそれほどの意味を持っているとは思っていなかった。映画としての映像ばかりを追っていた。文字は妙に神経質でうるさく邪魔なものだった。だが、フィリアが蓮見で、青猫が星野だと知り、改めて二回目を見たとき、この文字がストーリーを補完していることが遅ればせながら分った。やはりこれは掲示板から派生したスタイルの作品であり打ちだされる文字での会話が重要であったんだと、ようやく分った。開き直って言えば、こういうスタイルの映画は映画として受入れていないということでもある。

●ちょっとプクっと太った蒼井優だが、この映画の中ではまるで目立っていない。ストーリーの中の一部となった女子中学生でしかない。前に書いたように、最初見たとき、蒼井優が出ていたことすら気が付かなかった。市原隼人にしてもほっそりとして、本当にまだ子供という感じだ。この映画の中の登場人物には特に強烈なインパクトはない。敢えてそうしているのかもしれない。今では時めく程の活躍をしているこの二人にしても、この映画のなかでは特に目立った存在ではない。重要な役ではあるが、本当にどこにでも居るような中学生だ。だから誰も記憶に残らなかった。だれも何ともおもわなかった。本当にどこにでも居る中学生を集めて映画を撮ったように見えていた。しかしそんな中から才気を見いだし、今の蒼井や市原のようなスターを見いだした岩井俊二は、やはり凄いのであろう。

●印象が強いのは、どちらかといえば星野を演じた忍成修吾や久野を演じた伊藤歩であろう。この二人はもう既に役者として活躍していたから外部に発する力も演技の中に習得していたのだろう。忍成修吾はその狂気を内在させたような目と顔つきが強烈だ。「Dr.コトー診療所」でまたしても蒼井優を暴力で押さえつけようとする少し狂った人格の男を演じていた。この顔つきとこの目つき・・・そういう役がどうしても回ってきてしまうのだろうか? 伊藤歩は「スワロウテイル」であの折れそうに細い子供を演じていたのに、なんだか顔が横に大きくなってずいぶんガッシリとしたイメージに変わっている。それにしてもスキンヘッドで登場するシーンは強烈であった。(DVDの特典映像では髪の毛を全て切り落としバリカンで借り上げたところが収録されていす。そして思わず泣いてしまうところも。女性にとって髪の毛は命の次に大事なもの。それをこんな風に全部切り落とす。岩井俊二の映像に対する真剣さと同居した残酷さか?

●映像の美しさはやはり特筆ものであろう。それはカメラマン故篠田昇の感性と岩井俊二の感性が結実したものだろう。手持のデジタルカムで撮影したブレの多い映像だが、切り取られた絵の美しさは息を飲む程のものばかりだ、そこを見るだけでも価値はある。
(田んぼの風景が、美しい緑から、秋の涸れた稲穂の色になり、最後は稲を刈り取られた土と変化している・・・んー、巧みだ。)

●音楽と映像の融合も見事だ。盛り上がるべきところでベストなサウンドが降り注いでくる。小林武氏と岩井のコラボレーションも才気の昇竜か。
(リリイの声と容姿ってUAに似ているが・・・・・最初はUAがやってるんだと思ってた・・・・)

●ずいぶん長く書いた。一つの作品についてこんなに長く書いたのは初めてだ。それでも大夫整理している。妙な作品であり、暗く陰惨な作品であり、一つの映画としての完成度としては大きな欠落が随所にある作品でもある。だが、やはりこれは数多くの才能のデコレーションケーキのようなものだ。完全な融合はしていないし、形として出来上がってもいない。醜さもある。しかし、その特殊さゆえに、後々まで語られることであろう。

●最後に、この映画の中で最も美しいと感じたシーンに付いて書こう。7年前最初に見たとき、何故自分はこの美しさにさえ気が付かなかったのだろうと思ってしまう。(まあそれも前に書いたようにまともにみてなかったせいかもしれないけれど)

☆タイムコードで1:52:30からの約6分間は、これまでみた日本映画、洋画の中で最も美しいと思わせる素晴らしすぎるシーンが入っている、

●青い空に伸びる鉄塔の下を歩く津田。その青い空を白い飛行機雲を引きながら飛行機が飛んでゆく。そして逆光のなかの津田が少し寄せてフレームの中に入った時、津田と背後にある青い空と鉄塔の間から、赤いカイトが弧を描いて現れる!そして直ぐに引いた絵は、青空と鉄塔に太陽の光線がハレーションを起こし輝いている、そのハレーションの光の円弧の中を赤いカイトが並んで飛んでいる。

●こんな見事に美しい映像を見たのは初めてだ。ハッと息を飲むほど美しい。これ程の美しさは今だかって無い!

●そのカイト動かしているところを見ようと草の土手を駆け降りる津田。その駆け降りる姿の美しさ。(このシーンを何回か繰り返し見ていて、初めて蒼井優の持つ存在感というものが少しだけ分った気がした)

●そして鉄塔の下で血を流して死んでいる津田。

●田んぼの中にある一本道。夕暮れの空、道路の脇には電柱が立ち並び、電線が電柱と電柱を繋いでいる。オレンジ色に染まった空の中で、一本道を葬儀の行列が歩いているシーン。構図といい色といい、これも唖然とする美しさ。
もう一度書く。この1:52:30分からの約6分間を自分は何度も何度も繰り返し見た。この6分間に収められた映像は、映画の世界でフィルムに切り取られた自然の美しさの中で、かってない最上の美しさだと思う。

●それまでは意識していなかったが、DVDのジャケットに使われている青空の写真は、まさにその絵だった・・・・。

この6分間だけを見たとしても、この映画には崇高な価値がある。

蒼井優×岩井俊二×軽部真一が語る『リリイ・シュシュのすべて
http://www.cinra.net/interview/2011/04/29/000000.php