『ザ・マジックアワー』

●どうにも、三谷監督の作品は自分の嗜好に合わない感じがある。『みんなのいえ』も『The 有頂天ホテル』もどうにも見ていてしんどくなって、途中で見るをやめてしまっている。『THE 有頂天ホテル』に至ってはテレビでも放映しているので、ちょっと今度は見てみるかとチャンネルを合わせるが、やはり余りのあざとい演出と舞台舞台した絵に付いていけず、断片的にちょろちょろ見ただけで、どうにも作品として通してみることが苦痛で途中でうんざりして観るのを止めてしまう。くどくて観るのがうっとうしくなる映画であった。『みんなのいえ』もそう・・・んーダメだぁって感じで最後まで観れない。今回の『ザ・マジックアワー』も予告編からして三谷テイスト全開であったため、まるで見ようという気持ちがしなかったが、巷の評判(宣伝)によると三谷監督最高傑作などと言われて(宣伝されて)いるようだし、時間が余ったので一応観てはおくかという感じであった。

三谷映画のもう明らかな特徴、それは演劇を観ているような映画だということだ。スクリーンの中での劇中劇、演劇の舞台をフィルムに映してそれを観ているという感じが強くする。だから、普通の映画よりもスクリーンの中の絵が、役者が、すべて二歩か三歩遠くにあるように感じる。監督が見た演劇の舞台を、それを撮影したものを更にその後ろから見ているような感じなのだ。だからのめり込めない、距離感がある。

●しかし、やはり思った通り、これは演劇であった。演劇や舞台が嫌いなわけでも、それを否定するわけでもない、だが、映画という手法の中で演劇を見ることはどうにも嫌な感じがある。演出の方法も、見方も、演劇と映画は大きく違うのだ。

●所々面白いシーンはあるのだが、スクリーンに映しだされる役者の演技、ストーリーを見ていると、まるで演劇の台本をなぞらされているかのような感じなのである。三谷幸喜が書いた台本を読まされ、見させられ、その話しをなぞらされている感じがして、なんだか映画を見ている気がしない。「あなたの頭の中で構築した台本のストーリーを読まされる為に来たんじゃないんだよ」と言いたくなってしまう。

●たぶんその辺りが、自分が三谷監督の作品を好きになれない理由であろう。

●脚本家三谷幸喜が書いた、作った、ストーリーを、三谷幸喜が舞台演出のごとく思い描いたようにカメラが写し、それを見させられている感じ。三谷幸喜の目の裏から、三谷幸喜の演出している演劇の舞台を見ている感じ・・・・映画という感じがしないのだ。

●とはいえ、今の時代、監督の名前で観客動員を上げられるのは三谷幸喜ぐらいかもしれない。有名な監督は居るが、一番映画を見る若い世代に、「この監督の作品だったらまあ面白いんじゃないの?」と思わせる知名度とバリューを持っているのは図らずも現在は三谷幸喜ぐらいかもしれない。作品の質は別として。

●三谷作品ならそこそこ稼げることは織り込み済みだから、製作は安心して出来るであろうが・・・・いかんせん、映画としてこれはどうなのか?

●宣伝も大量に行われ、初夏のこの時期『ザ・マジックアワー』は興行的に大きな成功を収めるであろう。だが、自分としては、やっぱりダメだねこの感じの映画は。

・・・・その他・・・・・

深津絵里は今までになく奇麗に撮られている。綾瀬はるかも、ベタベタ演技ではあるが「僕の彼女はサイボーグ」よりもずっと奇麗に可愛く撮られている。

●映画、撮影関係者の内輪受け的要素が鼻に触る。1980年代の邦画的。「蒲田行進曲」だとかと近い感じかね。

●マジックアワーという言葉と対になるのはテレンス・マリック監督であろう。(その崇高な撮影方法とこの映画は繋がらないが)

●この映画のタイトル、そしてひょっとしてテーマなのかもしれないが、「マジックアワー」という言葉は映画の中でなんら生きていない。最後にわざとらしく「マジックアワー」の意味がちょっとだけ語られるが、その言葉がまるで響かない。全体としてドタバタギャグコメディー(作中でもそう言われているが)なのだから、マジックアワーという言葉とはなにか馴染まぬ。それでもいい言葉であるから映画のタイトルとしてはキャッチーで人目を惹くものはある。

★映画批評 by Lacroix