『約三十の嘘』(2004)

●原作は土田英生作の戯曲「約三十の嘘」・・・・この映画の作りはやはり舞台、演劇だ。”舞台で行なわれる演劇”という原作の素性がありありと見える。演劇は舞台という閉じた狭い空間で観客にストーリーの背景から状況までを説明しきらなくてはいけない。それは演劇というものが持つ特別な制約であり、それをどう巧く乗り越え、ストーリーを面白く展開していくかが戯曲を書くものの腕の見せ所。自在に時間も空間も飛び越えることのできる映画に演劇的な時間と空間の制約を持ち込む必要はない。

●戯曲とは、演劇の上演のために書かれた脚本、上演台本の形の文学作品。演劇のためのシナリオである。戯曲を原作として映画化するのであれば、映画的手法を効果的に活用し、演劇の持っていた制約を抜け出し、ストーリーを映画的に発展させるべきだ。それをせず演劇の状況設定、説明手法のままで映画を撮るならば、それはスクリーンの中で舞台演劇を見ているのと同じである。映画的転換が行なわれないならば、戯曲を映画にする意味はないではないか。

●詐欺師6人が集まり、3年ぶりの大仕事をしにいく、しかしその仕事、詐欺の様子は一切映像には出てこず、いきなり帰りの寝台特急のなかで、詐欺に大成功した!やった!という場面に飛ぶ。あとは寝台特急の中での閉じた空間での密室劇に終始する。演劇のストーリー進行をそのままに持ってきたというのが分かる。これではあまりに演劇臭さがプンプンなのである。こういった演劇の方法論が悪いのではない、それをそのまま映画に持ってきていることに拒否感を覚える。演劇と映画は別物なのだ。

●脚本 土田英生大谷健太郎渡辺あや ・・・原作者も監督も脚本執筆陣に名を連ね、さらに人気の脚本家渡辺あやまでが脚本に参加している。共同脚本は脚本家の独り善がりを是正し、複数の人間の知恵とアイディアでよりよきストーリーを作り上げる手法だが、この3人がいて、こんな内容の脚本にしかならなかったのかと落胆する。この脚本は多少のアレンジは加えられていても、原作の戯曲そのままである。3人が頭を寄せ合ってなぜ舞台用の脚本を映画の脚本に発展させることが出来なかったのか? 3人よれば文殊の知恵とはいうが、そんな古い言葉はこの映画の脚本には当てはまらなかったと言えよう。3人が脚本家として名を連ねているが、共同脚本というスタイルはとられていないのではないか? 原作にちょっとした調味料を加える程度のことはなされたのだろう、だが、戯曲が戯曲のままで映画脚本に置き換えられていない。それがこの映画の最大の失敗点である。

●原作の戯曲がなく、この脚本を書いていたのだとしたら、製作費を抑えるためになんともご都合主義な設定で脚本を書いたものだなと厭きれていただろう。

●7千万を騙し取ったという話だが、実際の詐欺の場面があるわけではないから登場人物が”大仕事”をしたのだという実感はまるでわかない。6人が詐欺師だというイメージも全然出てこない。なんでもないただ寝台特急に乗り合わせた普通の男女6人という感じである。

●騙し合いが展開されている・・・ようなのだが、誰が騙している、騙されているというサスペンスは全然ない。こんなことで誰がだまされると言うの?と白けてしまう。謎解きも驚くようなことはなく、ふーんで終わる。

●映画を観終わっても何も残らない、ただ6人があてがわれたセリフを喋っていただけ、それで話が全部終わった。そんな映画である。

●これは正直、まったくどうしょうもない一作である。人気のある男優、女優をそろえれば話題づくりは出来るし、そこそこに人も入ることだろう。だがそんな一部分にだけ貼ったメッキは直ぐにはがれるのだ。中身がこれでは、映画としてこれでは・・・・どうしょうもないとしか言いようがない。