『日本沈没』(1973)

橋本忍の脚本作品には素晴らしいものが多いが、同時に激しくどうしょうもないと思われるものもポツポツと出ている。何故に名匠と言われ、映画と脚本の在り方、作り方を誰よりも理解したと思われる橋本忍が、時として妙な作品を世に送り出すのか? 人間であるから全てが秀作であることなんてありえないが、素晴らしい作品と、どうしょうもない作品の落差が非常に大きい。これは研究に値する部分かもしれない。

●邦画では当時記録的大ヒットをした「日本沈没」。もちろんこの作品の事はしっていたが、何故かこれもずっと未見であった。一昨年に樋口監督がリメイクしたときも、オリジナルを見ようとは思ったが、手を伸ばす所までは行かなかった。そして、橋本忍の作品をこのところ続けて見ている流れの中でようやくという感じで、この作品を見ることとなった。

●この作品は名作「砂の器」(1974)の前年に公開されている。脚本の進行、製作の進行などでは時期が重なる所が多かったのではないだろうか?

●改めて今2008年に「日本沈没」を見た第一の感想は・・・何故これがそれほどの大ヒットをしたのか? 映画として脚本としての完成度は低いのではないか?というものだ。

●海底の調査から始まり、巨大地震が起きるまでのストーリー展開は・・・話しが通じていない。なんだ? 急に巨大地震が来て、東京がやられるのか?と唖然とする。

●箱根の老人・・・これは日本中枢を動かすだけの陰の権力者らしいが・・・・一体全体なんなのよ、これって? そんな妙な存在をストーリーの中にいれて何らかの話しの整合性、抑揚を作ろうとでもしたのかもしれないが・・・・無茶苦茶である。ヤクザ映画やレベルの低い漫画やテレビでにたようなことは多々行われているではないか?

●とにかく、話しがゆるい。見ていて日本沈没の緊迫感が感じられない。D計画、D2計画というのもいったいなんなのそれ? という感じ。

潜水艇の操縦士小野寺は葉山の女性(いしだあゆみの若かりしころを始めて見たが今とあまり変わりない顔つきだね)と行きなり懇ろになり、浜辺で寝ていたら天城山が爆発?・・・酷すぎる。

●東京が地震で大壊滅したのに、大阪の町はいつもと変わりなし、小野寺は大阪の町で兄と会い、フグを食って酔払い、フラフラ町を歩きながら「皆逃げろ、逃げるんだ」と呟く。まったく目茶苦茶である。すると、東京の地震でしばらく逢えないでいた葉山の女性とばったり大阪でぶつかる。いったいなんなんだこのストーリーは? 葉山の女性と資産を売り払ってジュネーブへ逃げようと約束するが、天城山が爆発したというのに、その女性は出発前に下田へ帰り、東京へ戻る途中で真鶴で地震と火山爆破に会い危機に陥る。ありえない。その女性は生き延びてその後ジュネーブかどこかで電車に乗っているシーンがラストに挿入されていたが。これももう笑ってしまう。

●とにかく、一つ一つの場面に繋がりが無い。ストーリーが流れていない。誰が考えてもそれってオカシイでしょうというような唐突なシーンがポンポン出てくる。現実にはありえないような話しをなぜ平然と脚本に入れているのか? 大地震津波、噴火など現実にはありえないような部分が多い作品だが、人間の絡みや本筋の映画のストーリーの部分でありえないことを平然と行っている。

●兎に角、話しが目茶苦茶で、場面場面が繋がりが無く、取って付けたようなシーンがあちこちに沢山あり、作品としての完成度がかなり低い。

●酷い映画である。あまりに話しが流れず、かったるいので途中で見るのを止めたくなったほどだ。これで二時間半もの時間を費やすとは。

●特撮の技術は今から30年以上前なのだから仕方ないとしても、話しがまるでだめだからこれでは低レベルの怪獣映画そのものだ。いや怪獣映画よりも酷いかもしれない。

●何故、これほどの酷い脚本を橋本忍が書いたのか? 「幻の湖」とならんで橋本作品の怪である。

●邦画史上でも空前の大ヒットで、テレビシリーズも含めてその時代のブームにもなった「日本沈没」であるが、ことさら映画に関しては、小松左京の小説の大ヒットに乗じて製作し、時流に乗って人も集まり、ヒットをしたということなのではないだろうか?

●ちなみにちょっとヤフーのユーザーレビューなどを見てみたが、多くの人が高得点を付けているようだ。信じられん。

●樋口監督の2006年度版「日本沈没」はイマイチだなぁとかなり辛口の批評をしたが、オリジナルを見たら、リメイクのほうがよっぽどいいと思えてきた。

橋本忍はこんなSF作品はやりたくなかったのではないだろうか? 精度もないし、練り込まれてもいないし、これでは駄作中の駄作ではないか?

●あまりにガッカリしたが、特典映像で小松左京竹内均の対談があったので見てみた。小松左京も髄分老け込んで言葉も呂律が乱れるようでちょっと痛々しかったが、その中で小松左京が言っていた。
「小説を発表したら直ぐに東宝がきて、映画化するから売ってくれと、そうしたらそれから4ヶ月位でもう映画になって公開されていた」と。小説が刊行されてわずか、そうわずか四ヶ月で映画化して公開までしたと。

●なるほどと思った。たった四ヶ月ではどう準備しても映画なんて出来るものではない、脚本だって煮詰められるものではない。劇場まで押えて大ヒットを飛ばしたのは兎に角。小説が空前のヒットをしているからその機に乗じて映画も公開すべきだ、というビジネス、金勘定感覚での製作が行われたに違いない。

●脚本の橋本忍にしても、監督の森谷司郎にしても、たった四ヶ月で急遽映画を作るというのは、それ以前に抱えていた仕事の流れもあるであろうから、ほぼ無理、完成度の高いもの、細部まで検討し煮詰められたものなど出来るはずが無い。それでも、作ってしまった、作らされたのだ。

●この話しを聞いて自分としてはこの映画のダメさが分かった気がする。映画を見ていて、ずっと感じ、考えていたことは「全編通して、やっつけ仕事のような出来のシーンばかりだ」ということである。

●黒澤組で、数々の名作に関わり、映画というものを他の誰よりも多く理解しているはずの二人にしても、たぶん会社の力などに押されて、きっとやりたくないやっつけ仕事をこなしてしまったのだ。その結果がこの「日本沈没」なのだ、そう思わざるを得ない。

●幸いにして大ヒットとなったから、製作会社側はしてやったりという大成功に酔いしれただろう。だが、橋本と森谷の顔は暗かったのではないだろうか? 大ヒットという後付けの評価が付いたからなんとか助かった。きっと時流の押しがなかったら、世紀の愚作になっていたのではないか?それ程の作品ではないか? 

●未だにこの作品を評価する人がいるが、それはそれで勝手だが、冷静にこの映画をみれば、映画としての高い評価を出せるような作品でないことは明らかではないだろうか?