『幻の湖』

●往年の邦画の名作と呼ばれるものを、時間を作って見ている。タイトルは知っているが未見のものは相当多い。考えれば子供の頃は邦画と言ってもゴジラガメラなどの怪獣物か角川映画の巨大宣伝でいやがおうにも注目させられた野生の証明だとか、横溝正史シリーズだとかそういうものしかみていなかったなと思う。当時から映画=洋画=カッコイイというような認識をもってしまっていて、洋画ばかり見ていたなあ。

●ましてや、自分が生まれる前の邦画全盛期といわれるような時代の作品は黒澤明にしても、小津にしても実際は一部超有名なもの以外は未見がザラにある。こういった往年の巨匠が作った映画、今とは違う映画のシステムの中で作られた映画を見ることで、もう少し映画の在り方を考えたいと思った。

●最近は橋本忍脚本の映画作品を続けて鑑賞している。「七人の侍」のあのスキのない脚本を黒澤、小国と三名で共同執筆し、名脚本家として通る橋本忍の作品を一通り見て、その技術や考えを少し吸収してみたいと思った。

●そこで超失敗作、カルトムービーとさえ呼ばれる『幻の湖』である。映画の設計図である脚本というものを誰よりも理解し、数々の素晴らしい作品を世に送り出してきた橋本忍が、論理的で、おかしな筋の話など一切なく、終始ガッチリとした構成力で脚本をまとめる橋本忍が、何故こんな映画を作ってしまったのか? そこには名匠とされる橋本忍の迷走がはっきりと見て取られる。

東宝は創立35周年記念作品として橋本忍脚本の「日本のいちばん長い日」を製作、公開し、大きな評価を受けた。その後橋本忍は映画会社に左右されない自分たちの本当に作りたいものを作るのだと松竹の野村芳太郎東宝森谷司郎、TBSの大山勝美らと共に橋本プロダクションを設立し「砂の器」「八甲田山」と日本映画界の歴史に残る大ヒット作を生みだしていく。(『日本沈没』は自分としては『幻の湖』と同じく迷走だと考えている)
作品を配給した東宝や松竹にとっても、橋本忍は観客を動員できる作品を生みだす金の成る木、超重鎮であったことだろう。

●『幻の湖』の製作秘話は今は余り表に出ているものがないが、東宝は創立50周年の記念作品として、35周年のときに『日本のいちばん長い日』を送り出しだ橋本忍に再び白羽の矢を立てた。橋本忍ならば、東宝の創立50周年記念という特別な作品で、これまで見たこともないような素晴らしい作品を作りだしてくれるに違いないと・・・・信じて。そして橋本は製作、脚本だけではなく、監督まで立って出た。

●しかし出来上がった作品は、どう考えても奇妙な、筋の通らぬ、おかしな話しが繋ぎあわされた、橋本忍とは思えぬ内容の作品であった。もう既に創立50周年記念事業として「幻の湖」はレールに乗って走り出していた、今更走り出した作品をストップさせることは、天下の東宝の一大記念行事に水を差す行為だった、誰しも停めようと思っていたのに、誰も停められなかった、そして遂に公開された『幻の湖』は全くの不評、不入りで始まり、東宝は自ら50周年記念作品の公開を一週間(二週間という話しもある)で打ち切った。ここまで来なければ止められなかったというのも、東宝とその当時の関係者の苦渋であったことであろう。

●そんな『幻の湖』はその後東宝から封印され、ビデオ化もテレビ放映もされず、2003年に遂にDVD化されるまで新しい人の目に触れることはなかった。

●『幻の湖』はそれほどまでの非難を受けた作品である。

●実際に自分もそういった作品があることは知っていたが、今回始めて実際の映画を見ることとなった。

●その内容は噂に違わず、誠にもって意味不明、不可解、不自然としか言い様のないほんとうにとんでもないといえる作品であった。

●映画にはそれを観る人、感じる人によってさまざまな捉え方がある、ある人が良いという部分がある人にとってはいやダメだとなることなどザラである。だが『幻の湖』においては、そのストーリーの無茶さや、唐突に現れる滑稽とも思われる秘話、そして甚だしく飛躍して唖然としてしまうほどのストーリーに、大多数の人が「これはダメだ」と口を揃えるであろう。

●名脚本化、橋本忍は時として迷走する。「日本沈没」は異常なほど短い製作期間で作られたものとは言え、やはりこれも迷走した作品であろう。2006年に橋本忍はこれまでの脚本家としての人生とよりよき映画の為の脚本を書くためとして『複眼の映像』という本を書き上げた。その本の中で橋本忍は失敗作というものを語っている。

◎「強引で一方的なストーリーの押し付けには圧迫感を感じる」
「一方的な主観のみの欠陥が脚本に錯綜する」
「客観性を失い、登場人物の自我のみの主張に陥り、一人よがりの独善的なもの」
「感情移入が過多になると、人物が独善的になり、作品は一人よがりの押しつけがましいものになってしまう」

●奇しくも橋本忍は自分が映画作りにおいて、やってはならないこと、それを忠実に自分の作品で実行してしまったのだ。

●そこに、橋本忍という人間の、人間らしさ、弱さ、優しさ、が全て内包されていると言えないだろうか?

●先日世田谷文学館で行われた橋本忍の講演会で参加者の「幻の湖」に対する質問に答えて、ご本人がこう言われたそうである「時代劇の部分も絡んできて、まとめられず、脚本の弱点を誰も指摘してくれなかった。独裁者の悲劇です」と・・・・。

●人は誰しも同じ間違いを繰り返す。映画の世界で、脚本で、こう言ったことをしてはいけないと声を上げていた本人が、その間違いを誰よりも明確に冒してしまう。それが人間というものであろうか。

橋本忍の作品がどれもこれも非の打ち所もないほど完璧で優れた作品であったならば、それは凄い事ではあるが、異常な天才かもしれない。黒澤明でさえも、その作品群の中にこれはどうもなという作品が結構な数含まれている。人はそう言うものなのであろう。映画とはそういうものなのである。だからこそ却って、その人の魅力は増すのであろうと考える。

●『幻の湖』の摩訶不思議、奇っ怪な部分はここでは取上げない。ネット上には他の人が詳しく説明しているページもある。願わくば、名匠橋本忍が何故こんな迷走をしたのか、その真実を自分の目で確かめて欲しいと思う。

●一つ良いところを上げるとすれば、中盤に挿入された過去の逸話に振り返る時代劇の部分であろう。ここだけを切り抜けば、これは橋本流の緻密なストーリーとなっている。しかも、壮絶で悲しい。

●ずっと時代劇を書いてきた橋本忍にはやはり時代劇が一番水が合っているのだろう。あまりに現代的なSFやサスペンスだと、破綻している。

●この映画のヒロイン南條 玲子は一般オーディションで物凄い人数の中から選ばれ、華々しいデビューだったのだが、ダメな映画に出てしまうと、その役者のその後の役者人生の流れまで変えてしまうのだね。20歳ちょっとで東宝の一大記念作品のヒロインに抜擢というシンデレラストーリーだったが、頑張ってソープランド嬢の役をこなし、ヌードまで披露したのにその後はパッとせず、オファーもポルノ女優の話しだとかが来るし。(それは仕方ないだろうが)その後はTVの2時間ドラマの端役などで終わってしまう。映画以上に、不運であった女優もというべきであろうか?