『白い巨塔』(1966)

●これは完成度が高い。たっぷり二時間半、映画の面白さに浸り、堪能させてもらった。

●二時間半という長さがまったく気にならないほどの面白さ。やはり映画は脚本、演出、構成、展開・・・全てがしっかりと組み立てられていれば二時間や三時間の尺であってもまるでダレルことなく映像とストーリーに引き込まれ時間の長さなんて気にならないのだなと再認識する。それに引き換え、始まって30分もすればもうダルいなぁと思えてしまう映画がなんと多いことか。

山崎豊子の原作の良さもあるが、やはりその原作を調理した橋本忍の脚本の巧みさ、構成力がものを言っている。そしてさらにそこに、監督である山本薩夫の演出が重なってこれほどまでに重厚で観るものの気持ちを放さない映画が出来上がったのであろう。

●妻、妻の父親、病院の上下関係、大学病院の横のつながり、いやはや驚く程の登場人物の数と連関なのだが、どれも見事にパズルの一つとして機能している。これだけの登場人物、その社会背景、人間関係などをどれ一つとして破綻させず、この一本の映画の中に見事に配し、絡め、動かし、重層的に絡み合わせつつ大きなストーリーの流れを作っていくこの構成力は凄まじい。頭のなかで一人一人のキャラクターが完全に個別に個性を維持して認識されていなかったらどこかでおかしなことになってしまうだろう。脚本の橋本忍の力量を最大級に発揮した作品であるとも言える。

●監督の山本薩夫は社会派監督として人間社会に向ける厳しい目を持っているということだが、この映画はまさに監督の信条、信念を表わすに最高の一作となったことであろう。(「皇帝のいない八月」も過去に見ているのだが・・・このブログを開始する前だったかな?)

●財前の母親のエピソード、財前の妻、東教授の娘(藤村志保)のエピソードなど、そこまであれもこれも話に組み込まなくてもいいのでは?と思えるような部分もある。話の本筋にはさほど絡まないのだからそういった部分は贅肉ではないか?そういった部分はもっと削ぎ落とし、本筋の話にフォーカスを絞るべきでは・・・などとも思ったのだが、小さなエピソードや、脇役の存在、そういった物が要らないのでは?と思いつつも本筋のストーリーに奥行きと深みを与えているのだなと観終わって気が付く。そういったサイドストーリー的な部分にまでも神経の行き届いた、いや神経がぴりぴりに張り巡らせれた、実に綿密に、実に緻密に計算され、考え抜かれた構成の映画である。

●小説ではこの続編がまだまだ続いているようだが、その映像化されたものも見てみたい。何度かドラマ化もされているようだが、1978年のドラマ化では「続・白い巨塔」までの完全映像化がされているという。このドラマ化では田宮二郎が映画と同じく財前役を演じているということだ。これは観てみたい。(田宮二郎は財前の役にこだわり続け、続編の制作も強く要望、その願いがかなって再びドラマで財前役を演じたが、放映終了後に自殺したという)

●これだけのクオリティーの作品があるのだから、映画で続編を作るというのもかなり手間が掛かるし、難しくもある。余りに上出来の映画の続編を作るという、あえて火中の栗を拾おうとする人もなかったのかもしれない。

●のっけから開腹手術の場面が映し出される。これが本当に人体を切っているのではないかというほどのリアルさ。(ひょっとしてそういう場面を撮影したのだろうか?)その後も何度か手術のシーンが出てくるが、どれもこれも本当に人間を切っているのではと思えるほどギョッとする映像。白黒だからなんとかなったが、これがカラーだったら正視に耐えないかもしれない。

田宮二郎の演技、役柄へのベストマッチ具合も凄い。というかほかの役者も全て演技が凄い。本当に役柄が乗り移ったかのような表情であり、台詞であり動きである。とにかくこの映画は全てが手抜きなどどこにもなく、役者もスタッフも関係者全員が渾身の力で作っているかのような熱気を感じる。

●その後田宮二郎は映画会社のごたごたや、自分の精神的な失調などもあって44歳で自殺したというが、これだけの名演技をしていた役者がその後も生きていたら、どんな映画でどんな名演をしていただろう・・・そう思うとやはり残念である。
(自分にとってはタイムショックの司会を明るい笑顔でしていた人というおぼろげな記憶しか残っていなかったのだけれど。)

●作品名は超が付くほど有名であるし、それが病院を舞台にした権力闘争のストーリーということも知ってはいたのだが、何故かこの映画も観ていなかった。そういう映画は多々ある。そう思って最近古い作品を積極的に観たり、再見したりしているのだが、古い名作はやはりどれもこれも評価が高いものだけに、唸るほどに素晴らしいものが多い。流行の映画、宣伝で煽られた新作を数本観るよりも、過去の未見の名作を一本観るほうが価値は高いか。