『地下鉄(メトロ)に乗って』

●驚くほど多作な浅田次郎の小説でも人気のある作品の映画化。映画化にはずいぶん時間がかかったとのことだが、タイムスリップものだから当時の情景を再現したり、辻褄あわせたり、まあそういうところが大変そうで、どこも製作に乗り出せなかったのかな?

●地下鉄丸ノ内線新中野が舞台の映画だというのに、この映画公開当時新中野付近ではなんらイベントも、宣伝告知も、盛り上げも行われていなかったような気がする。新中野はちょくちょく通るのだが、地下鉄のホームには確かに営団とタイアップした映画のポスターが張ってあった。だが、それも「地下鉄に乗って」という題だからやってるんだろうな、という風に思っていて、まさか乗り降りしている新中野がそのまんま映画の舞台だとは全然知らなかった。ご当地ものの映画なら必ずそのロケ地や関わりのある場所と組んでキャンンやらプロモーションをするものだが、何故か新中野や鍋横通り商店街でそういう動きは全く見られなかった。どうしたんだろうね?? なんで商店街が地元活性の為とか言ってキャンペーンをしなかったのかね? そうすれば商店街に来る人だって増えただろうに。ひょっとしたらなにかあったのかもしれないが?? 分らん。

●ちょっと脚本が拙いんじゃないの?と思うのは地下鉄に乗ってタイムスリップするところ。一回目のタイムスリップは自分の意志とは別に偶然過去へ戻ってしまったわけでそれはそれでよし。だが、父親を救うとか、言えなかった一言を伝えるためのタイムスリップは自発的なものとなっていたはず。この地下鉄のホームで地下鉄に乗れば過去に戻れるんだ!そう分ったから地下鉄に乗るというのがまっとうなんだけど、この映画の主人公は毎回偶発的に過去へ持っていかれてしまっている。タイトルの「地下鉄に乗って」というのも「地下鉄に乗ったら」ではないのだから、自発的な意味が入っていると思われる。過去へ繋がる地下鉄を見つけ、過去の間違いをもういちどやり直しに「地下鉄に乗って」行くのであり、間違って過去へ持っていかれるのではないのだ。そこのところがこの映画だとアベコベになっているようだ。だからなんだか、なんでそうなるの?と意味が釈然としなくなってしまっている。

岡本綾はちょっとふわふわした色気のあるOL役という感じでいい雰囲気なのだが、過去にタイムスリップした為に不倫している相手が自分と血の繋がった相手だと分ってしまう。だからってそれに悩み、自分を消してしまうため、自分を身ごもった親と一緒に階段を転げ落ちて自殺、または腹の中の子供を殺そうというのはどういうことだろう。あまりにこれは話しが成り立たない。これじゃ、気の狂った子供殺しの親と同じじゃない? ましてや自分を身ごもっている親をだよ、子供が腹の中にいるのに階段から転げ落ちる??? 女性の感覚ならこれは絶対ありえないんじゃないだろうか?

●その他にも筋の通らないストーリの展開はあちこち、戦後の話しやらヤミ市の中で生き抜いていく話しやらいろんなイイ話しが転がっているのに、まるで筋の通らぬ余計な話で全部台無しにしている感じ。

田中泯の存在もなんだか変である。原作ではどうなのか知らないが、田中泯が演じる役は何の意味があるのだろう? 「地下鉄はいいよ、好きなところに連れてってくれる」田中泯のセリフだが、このセリフが映画の何かをしめしているのなら、それこそ伝えられなかった思いを伝えるため過去へと自分の意志で連れてってくれる乗り物なのだよという比喩になるはずだ。だが、前述のように、タイムスリップはどうにもこうにも自分の意志で連れてってくれるのではなく、勝手に不可抗力で連れていかれる状態になっている。・・・・これではなぁ。

●不倫にしても子供のことにしても、あまりに道徳観の欠如した「えっ?」というような展開がありすぎる。

●何故監督はそういう部分を修正しようとしなかったのだろう? 出演している役者だってこれじゃオカシイよと思っていたんじゃないだろうか?

●理の整わない、筋の通らないめちゃくちゃな自分勝手な脚本では、映画が人の心を打つ作品になろうはずがないではないか。

PS:岡本綾はなかなかちょっとHなベットシーンなどもあり、エロッポイなぁなどと思っていたら。引退してしまった。これが最後の映画出演作となるだろうか?(休業という話しもあるが)中村獅童との深夜ドライブがとりだたされて、映画を地で行く不倫をしていたわけだが、今後どうなるのだろう。少し歳を重ねて落ち着いてからまた役者として出てくればいい役をやれそうな気もするが。