『武士の一分』 

山田洋次監督の藤沢周平時代劇映画化三部作の最後の作品。
たぶん元々は三部作なんて思惑はなかったんだろうけれど、最初に作った「たそがれ清兵衛」が思いも寄らぬほどの大ヒット大評価となり、それに乗じて二作目、三作目と話しが進んだのであろう。幸いにして興行収入は2作目、三作目とどんどんとを伸ばしたからいいのだろうけれど、作品の質はどんどんと低下していったというのが偽らざる気持ち。

●「たそがれ清兵衛」は素晴らしい作品であった。ストーリー展開の巧みさ、雇われ武士の悲しさ、時代背景すら現代の社会人に投影できるような意味深い設定。そして田中泯の目を見張る程のすさまじい演技。真田広之田中泯の立ち回りも日本映画に残る傑作場面であろう。ラストに至る人間の哀しみ、寂しさの表現に至っては脱帽ものだった。

●しかしその「「たそがれ清兵衛」も製作当初はまるでヒットなど望めないだろうという意見が大半で、公開劇場も少なく、前売り券に至っては少しでも動員を増やそうと特別価格の1000円で販売するという奇策までとられていた。(試写会での映画の評価が高くなり普通なら公開が始まっても売れ残る前売り券はあっというまにどこにも無くなった)松竹としてもそんなことなら普通の値段で売っておけばよかったと悔しがったことだろう。

●そしてこの大ヒットに気を良くして作った第二作「隠し剣 鬼の爪」動員こそ「たそがれ清兵衛」の続編ということで期待もあってか、そこそこには伸びたが映画としてはコケた。永瀬正敏を主役とし、花として松たか子を配したのだが、話しが軽かった。「たそがれ清兵衛」に有るようなメッセージ性も社会性も感じられず、たんなるちょっとした復讐劇でしかなかった。なによりも太刀回りが非常に貧弱で、緊迫感もない。観客としては一体なにが「隠し剣鬼の爪」なのか?と期待して見ていたわけだが、なんだこんなことかよ!という始末。最後に松たか子が扮する女中のきえに結婚を申し出に行く様もなんともパターン化しており実に内容的に詰まらない終わり方であった。

●そして第三作目の「武士の一分」主役に木村拓哉を選んだのは役だ、演技力だではなく話題性と観客動員の為のありきたりの戦術。まあ売れなければどうしょうもないのだからそれはビジネスとして認めるが、それが映画に、作品にプラスに働けばという前提を忘れたら映画ではなくなる。

●普段ならこんな時代劇は女性客などさほど入らないであろう。藤沢周兵作品のファンも年配が殆どであろう。それが劇場公開初日から多くの女性客を集め、第1週の観客動員も興行収入も三部作最高となり、この一年に公開された映画作品のなかでもベスト10に入る記録画間違い無いところとなった。だから言うのだ、映画のヒットではなく、人気役者のヒットでしかないと・・・・。

●「たそがれ清兵衛」であれだけ素晴らしい作品を作った山田洋次監督も”もうからねばダメ”という企業の流れには逆らえない。だからこそ、たかが人気俳優のキャスティングで観客が入ったのだなどと言われないような作品を作って欲しかった。作るべきだった。

●三部作の中では最もヒットとなる作品になったが、最も出来の悪い詰まらない凡庸な作品に堕ちたことはこの映画を見た人には明らかだろう。

●「隠し剣 鬼の爪」でもそうだったが、太刀回りがあまりに迫力も真剣味もない。なんでこんなへなちょこ剣士であんな強そうな相手に勝っちゃうわけ?見た人は皆そうおもうのではないだろうか? しかも目も見えないのだよ! そこにシラケを生む大きな問題点がある。とにかく木村拓哉はまるで強そうではない。凄みもない。それでいて目も見えないのになんだかあっさり、あれ?という感じで相手に勝ってしまう。
これではどっちらけである。なんで山田監督はこんな演出をするのだろうか?「たそがれ清兵衛」と同じ監督とはとても思えない。

●壇れいは映画初出演だが非常に奇麗だった。和が似合う正当派の美人であろう。しかも可愛らしさも残っている。映画のプロモーションで普通の洋服を着て化粧をした壇れいを見たが、映画ほどの美しさを感じなかった。この映画での和服を着た壇れいは一番その雰囲気ににあっているのだろう。今後どういう役者人生を歩むか楽しみでも有る。でも現代的なドラマとかは向かないかも。

●ということで、大ヒットで興行もどんどの伸びているようだが・・・・・これもだめだね。と溜息であろう。