『リバー・ランズ・スルー・イット』

●最近あまり洋画を観ず邦画中心の鑑賞スタイルに偏っている。DVDでブレードランナーは観たが、劇場で洋画を観ようという気持ちがなかなか起きてこない。パターン化され、観客の反応ばかりを気にしたような作り、演出、展開、キャスト、音楽・・・・そういったものにうんざりし、辟易し、落胆し、失望し・・・そんな洋画を観る位ならば邦画を観ていたほうがまだ考えられる、思いを巡らせることが出来る、そんな気持ちが続いている。

●お正月休みののんびりとした時間のなかで、だけど洋画を観たいと思った。良質な、自分がそれにより育てられた、本当の映画の国の映画を。部屋にあるDVDラックをずっと眺めてみる。好きな映画、思い入れのある映画は多々ある・・・・だが、今この時期に観る作品としてあれやこれやと手に取っては戻し、手に取っては戻しと悩んだ末『リバー・ランズ・スルー・イット』を選んだ。

●これを再見するのはもう5.6年ぶりだ。無理に煽らない、無理に感動させようなどとしない、スタンダードの中のスタンダードといえるような、非常にベーシックな作りの作品でありながら、いや、そうであるからこそ、この映画は心にしみ込み、名作と言われるのかもしれない。

●二人の兄弟の父親であり、神父である役を演じたトム・スケリットは目立たず、大作にもあまりお呼びがかからないようだが、実に深みのある演技をしている。ブラピの兄を演じたクレイグ・シェイファーも好演なのだが、その後花が開いていないか。

●ポール(ブラピ)が町で殺されたことを知ったときの、トム・スケリットの父親としての顔、その悲しみを飲み込んで平静を保つ姿は名演であろう。喋らずとも立っている姿だけで息子を失った悲しさを表現している。

●我が子を失ったあと、父と母が二人でテーブルに着き食事をとるシーンがある。逆行でブラックアウトした夫婦の姿。静かに料理を口元に運ぶ姿が離れたカメラ位置から撮影されている。この二人の姿だけで、悲しみがどれだけ深く親の心の中にしみ込んでしまっているかが、セリフなどなくともひしと伝わってくる。撮影も秀逸だ。

フライフィッシングのシーン。モンタナの水の流れ。照りつける太陽。まざまざとその実物を感じさせるような味があり美しい絵だ。

●たんたんとしたストーリーはたんたんとして終わる。そして最後に、年老いた兄が一人河辺でフライフィッシングをしている。
「親も、妻も、みな亡くなった。愛した人も、解りあえなかった友ももう誰もいない。残っているのは自分だけだ・・・そして何もかわりなく川は流れている。太古の昔からずっと。その川辺に居ると、自分は川と同化して、川だけが思いでの中を流れている」と・・・

●楽しかった思いでも、子供の頃のはしゃいだ記憶も、若かりしころの恋も、愛した人も、誰でも、全てはいつか消えていく。残るのは思いでだけだ。そして自分もいづれ死に、大地に帰っていく、全ての記憶は消えていくのだ。

●年老いた兄が語る言葉は人間の普遍の真理だろうか? 人の生には限りがある。皆、いずれは息途絶え、消えていく。若いころはそんなことを考えもしなかったのだが、年老いて人生の最後をまじかに迎えたとき、その思いは諦めとともに、心の中に真理として帰来する。

●この映画が語るのは・・・人間の定め、大いなる自然のなかで人間は、その一生は本当に短く儚きもの、だからこそ生きるその一瞬すらも無駄にすることなく高め深めていくのだということなのだろうか?

●このようなラストは、ブレードランナーのラストにも通じる。「全ては消えてゆく・・」そう最後に言い残して絶命したレプリカントの思いも、同じであろう。人生、命、映画のテーマとしてのそれは形は違えど、誰しもが同一の思いを抱いているのであろう。

●映画の歴史100年の名作があれば、今後さらに続く100年があるとすれば、この映画は名作としていつまでも名を留める作品となるであろう。