『アヒルと鴨のコインロッカー』 

●最近の自分はアンテナを貼る方向を制限してしまっているのだろうか? 相変わらず原作に関する知識はゼロ状況である。考えれば最近の原作モノの映画化でも知らないものばかりだ。このブログでも度々書いてるけど、「バッテリー」も知らなかった。「アルゼンチンババア」も「蟲師」も「ハチクロ」も全然知らなかった。まあそれはそれでいいのだろう。個人がそのカバーするエリアで知りうる情報というものは限界もある。自分の嗜好にしたがって情報を集めるのだから。

●市井である程度以上話題となっている作品を殆ど知らない自分というのも、まあちょっとなんだけどと思った。要するに最近は新しい小説やマンガというものを余りにも見ていないのだな。小説はよっぽど話題になったものしか読まなくなったし、どちらかといえば新書のエッセイなんかばかりを読んでいるからだろう。

●この作品は *第25回吉川英治新人文学賞受賞 *第1回本屋大賞第3位 *2005年度「このミステリーがすごい!」国内編第2位 とまあ本に興味の有る人なら殆どしっているだろう賞をいっぱい受賞してたんだね。自分はなんとその辺に疎いことか・・・・・・。

●で、作品のことに話しを戻すと、みちのく仙台を舞台にした作品ということで、殆どが現地ロケで撮影は行われたとのこと。ご当地モノというのは通常以上にそのご当地での人気は跳ね上がるものだが、この映画に至っては仙台周辺の10数館での全国先行上映が行われた所、なんと仙台周辺の映画館ではハリウッド大作「パイレーツ・オブ・カリビアン・ワールドエンド」を押しのけてGWからの興行収入では断トツナンバーワンを独走したということである。ふひゃー、それは凄いよ。ご当地モノのアドバンテージがあるとしても、パイカリを抜くんだから。それだけこの作品/原作の小説は仙台という土地では知らない人はいないという位の認知度だったたんだね。

●そして遂に、仙台での大ヒットを引っさげて東京に逆上陸!劇場は恵比寿ガーデンシネマ、まあこの形で大手チェーンの興行スケジュールに乗せることは難しいだろうけど、ガーデンシネマはベストな選択であったかな。単館系としては作品のテイストにも文化的な雰囲気にもぴったりだ。遂に東京公開が決まって、私の知人も「一体どうなるだろう?仙台では当ったけど、東京ではどうなるだろう、しかもたった一館でのスタートだし」・・・と公開初日に劇場に見に行ったら・・・・超満員。なんと恵比寿ガーデンシネマの邦画の興行記録をあっさり塗り替えてトップに躍り出たということだ。(それまでのトップは「間宮兄弟」だったらしい。)

●映画の中身の事・・・・・原作の小説を想像させるようなプロットのちょっとした複雑さ、あちこちに貼ってある伏線、そういった細かな演出がストーリーの流れの中で破綻することなく、巧く繋がっている。脚本の妙、そして若くはあるが、しっかりと作品全体を頭の中に入れて映画を作り上げていった監督の手腕はなかなか凄い。

●主役となる3人は余り名前も通っていなく、見る側の立場からすれば色の付いていない役者だ。そこがまた普通さを自然に醸し出していて絶妙。

●一番ギャラが高いと思われる松田龍平と大塚寧々はスパイス的な役。主役三人だけでは締まりが無くなりそうになったころ合いに、顔も知れていて、役にも重みがある二人が絡むと画面も話しもそして映画自体もキュッと引き締まり展開が加速する。知名度の高い役者ちょっとした脇役、引締役を与え作品の質を上げるというのはスタンダードな手法ではあるが、これもキャスティングの妙である。

●映画のポスターにも、前売り券にも宣伝HPにも、どこにも松田と大塚の画像は使われていない。認知度の高い役者をビジュアル効果の高い位置や場所に使って集客をするというのも又、映画宣伝の常套手段ではあるが、金も掛かっているのにそれをしないとは・・・・・そういう売り方をするんじゃないんだ、自分たちは!という製作陣の強い意気込み、意志を感じる。

●細かな仕掛けが後になってって色々分かってくるからもう一度見たいと思わせる内容だ。劇場はリピーター割引なんてのもやっているようだが。同じ手法は「メメント」「マルホランド・ドライブ」などのプロットが複雑な映画で興行収入を上げるために外資系映画で取られて使われるようになった手法だ。

●正直に言って、馬鹿なガキのペット虐待、暴力、そして人種差別、偏見、そう言った内容の作品、映画は好きではない。見ていて気分が悪くなるから余り見たくもないというのが本当のところだ。途中で「なんかこういう流れで話しが進んでいったのなら、この映画は好きになれないだろうな」と思っていた。映画の全体にその重く、陰鬱な雰囲気がうっすらとだが漂っている。

●多くの人も死んでいく、好きだった人、とても良かった人、それは男女を問わずとても大切な存在だった人、そんな人が死んでゆく、ある人は人の命なんてなんとも思っていないようなヤツラのせいで納得の出来ない死に方をし、ある人は好きだった人、素敵だった人の恨みを晴らそうとしたけれど、その気持ちを完了させることなく悔しさを残して死んでいく。

●映画の最初では全然想像もつかなかったそんな悲しさが少しずつ少しずつ増していく。所々で語られたセリフの意味もラストに向けて糸が束ねられるかのように収束していく。

●そして、ストーリーの全容が分かったとき、寂しさや切なさが波のように押し寄せてくる。

●大好きだった人、大好きだった女の子、好きだった友達、素敵だった笑顔、素晴らしかったその人の考え方、そう言ったものが全て失われてしまった・・・・・・残された人はどうしたらいいのか? それはどうにも出来ないんだ。

●ある意味復讐という暴力で自分の気持ちにケリをつけたいと思うのかもしれない。そうしなければ無くなっていた大好きな人が悲しすぎるから。だけど、一番最後に分かることは・・・・・そんな恨みを復讐で片づけたとしても・・・・・何をしたとしても、好きだった人や、その考えや、自分がその人たちを好きだったその時の輝きは、もう何をしたって絶対に戻ってはこないということなのだろう。

●映画が終わったとき、ザワザワっと劇場全体がどよめいた。拍手でもなく、良かったという感想の言葉でもなく、その時劇場に居た人たちが
「そんなぁ・・・」という様な言葉を自分では知らずに口に出してしまっている・・・そんな雰囲気だった。映画を見終えてこんな感じになったことって今まで一度もない。異常な驚きだ。一番後ろの席に座っていた女の子が座席に顔を当てて涙を流して泣いていた。

●この映画には言葉や演技など見たり聞いたりする部分を越えて伝わってくる哀しさと侘びしさ、寂しさがとても強くある。そんな映画は希有だ!

●ストーリーの展開や役者やセリフ、題のライトさとは相反して、内容にはじわりと心にしみ込んでくる哀しさと寂しさがある。


●映画の中ではそんなことは何も語られてはいないけれど・・・・「もうなにをしたって戻ってこないもの・・・」がきっと心に引っ掛かるのだと思う。この映画奥底にある哀しさと寂しさと切なさは、きっと「手を伸ばしても、どう頑張っても、二度と取り戻せない大切なものへの思い」なのではないだろうか?


●それは誰しもが持っている若かりしころの思い出、青春の甘酸っぱさ、輝き、そういったものであり、また祭が終わってしまったときのあの寂しさ、夏の輝きが去っていき秋の気配を感じたときのあの寂しさ、そういうものにとても似ていると思う。


●だから、誰しもの心のなかにある寂しさを、スッと思い出して、引き出されてしまうから・・・・この映画は切なく、哀しいのだ。


●好きと言える映画ではないだろう、大絶賛する映画でもないだろう、だが、この映画の持っている針は心に長く刺さり続ける。