『さくらん』

●あの蜷川実花が映画を撮る!というだけでも、お!ひょっとして凄いのが出来るかも?という期待を抱かせる。蜷川実花の独特な色彩感覚、色彩魔術は写真集やCMなどでこれまでも相当に驚きを与えてくれた。彼女の撮る女性の写真はその斬新な色彩の綴織が他にはないワン&オンリーの凄さを感じさせてくれる。誰が見たって「凄いな」と唾を飲む普遍性をもった希有な才能だろう。

●プロモーションの画像も、いかにも蜷川実花と言うものを感じさせる華やかな色彩を配した作品となっており、これは一体どんな映像を見せてくれるのか? これまで写真でしか見なかった蜷川実花の色の魔術をフィルムの中でどう展開してくれるのか? 非常に期待を高めるものであった。

●ただし、事前の予告編を見たら・・・・色の扱いは予想通りだが、土屋アンナは相変わらずのヤンキー調でがなりたてており、ドタバタ喜劇かのようなシーンが切り張りされていて。んーひょっとしたら外すかも?という不安感が沸いてきていた。

それでもやはり蜷川実花の作品!かなりの期待をして見たのではあるのだが・・・がっかりというほどではないにしろ、ちょっと肩透かしであった。
なんだい、結局こんなもんなのか? という印象である。

●どうも先に公開された「SAYURI」の影響を受けているのではないか?(遊廓、遊女、吉原と京都の芸者いうことで舞台は似てはいるとしても)監督はそんなこと思っていないとしても遊廓に売られてくる子供、姉さんに付いてしきたりを学ぶ姿、横暴に振る舞う姉さん。なんだか見ていると「SAYURI」とオーバーラップし、雰囲気が類似するシーンが多すぎる。日本人はともあれ、よくわからない外人が見たらそれこそ前半部分は「SAYURI」のコピーと思ってしまうのではないか?というか思われても仕方のない作りだ。豪華絢爛たる着物を着て、狭い部屋の中で男に仕える女を描いているのだからこれは「SAYURI」も「さくらん」も類似どころか同じ世界と思われても仕方ない。(本質は同じかもしれないし)

●しかもだ、菅野美穂木村佳乃も思いっきり頑張って演技をしているのだけれど・・・・流石のコン・リーやチャン・ツィーイーの演技には足下にも及ばない。内から出る女の性や魔性の部分はとてもじゃないが「「SAYURI」の出演者の凄さには及びも付かないのである。
(でもちょっと前に公開された洋画に似ているというところは目を瞑っておこう。話しが先に進まなくなる。)

木村佳乃菅野美穂土屋アンナらの濡れ場も厭わぬ体当たり演技には驚いた。木村佳乃なんてよくもここまで脱いでここまで汚れ役の情事シーンをやったものだと驚いた。これも監督である蜷川実花あってのものか? これまでフォトグラファーとして世界的にも認められる素晴らしい女性の写真を撮影してきた蜷川実花が、その才気溢れる女性が監督するのであるからこそ、それぞれの役者も決意してこれだけの濡れ場を演じることに同意したのであろう。女性が作る女性の映画だから・・・。
原作:安野モヨコ、脚本:タナダユキ、音楽:椎名林檎 そして監督:蜷川実花とくれば良くも悪くもこの世のキワモノ女性総結集とも言える制作陣である。

●最初は蜷川実花独特の色彩感覚にフーンなるほどと思った。だがだ・・・段々と映画を見続けていくうちに、その色彩感覚があまり目立たなくなっていった。赤を基調とした正に色彩のマジックとも言える色の豪華饗宴ではあるのだが・・・・映画という分野においてなら、この位の絵は過去にも沢山撮られている。驚くほどではないのだ。流れる絵の中での色彩感覚でいうならば映画は既に「さくらん」のレベルは通過している。

そう、はっ!とする驚きではないのだ。

吉原や芸者を描いた映画であれば似たようなものは有る!「さくらん」はいまだかって見たことのないような驚くべき映像ではなかった。(対峙的に見るならば「嫌われ松子の一生」の絵はやはり未だかってみたことのない驚くべき色彩感覚と演出のなす驚きの絵だった)
そう、写真集のような静止した絵の中では蜷川の凄さを強烈に叩き付けられたが、映画のなかではワン&オンリーの驚くべき凄さ、輝きはなかった。

●印象的なシーン(としたかったのであろう)が二つある。椎名桔平が演じる武家の役人?かなにかが日暮の願いを叶える為、吉原に桜を咲かせると言うくだりで日暮が障子戸をパーッと明けると外に満開の桜が画面一杯に広がっているシーン。
桜が輝いていないのだ! あの淡く美しい桜の色が感じられないのだ。薄くボヤけているのだ。
そしてラスト、安藤正信演じる清次と吉原から逃げ出した二人が駆け出していくその前方には花満開の桜の木がこれでもかという位沢山並んでいる。だがこのシーンでも桜が美しいと感じないのだ。奇麗だとあの淡い桜色から感じないのだ。

●なぜだろう? かなり穿った見方をすれば蜷川実花は原色、極彩色のマジシャンである。がゆえに、儚い淡さを色として持っているあの桜の色を、その美しさを出せないのではないか?と思ったりしてしまう。そう、そう思うくらい桜に心を揺らされ、だが温かさを感じるような、そんな美しさが感じられないのだ。

●個々のシーン写真やパンフレット、ポスターなどを見ると、その色彩感覚はやはり凄いと思う。その一つ一つの静止した写真には流石世界のフォトグラファーである蜷川実花の真の実力がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。一目見て凄いと見入ってしまうものがある。だが、その静止した絵が連続した映画になったとき、何かが欠落する。静止した絵が持っていたパワーや感動や強烈な刺激が薄れているのだ。感じられなくなっているのだ。それはなぜなのか、同じ絵でありながらも静止した写真と、動き、連続し、ストーリーを持った映画はやはり違うということの証しなのか?

●色と絵の話しはここまでで充分した。であれば次に大事なのはストーリーであり、演出である。しかし、これはごくごく凡庸であり、ハッと驚くような展開も演出の妙も取込まれてはいない。ラストもあたりまえのように予想出来る結末。破綻はないが、映画としての驚きや面白さはない。話しはあくまでありきたりで普通レベルである。

どろろを見て土屋アンナはホントに演技が下手だと書いた。ヤンキー娘をやっていれば地でできるが、それ以外はダメだと。この映画の中での土屋アンナはそれほど酷くはない。良い表情を見せる部分も多々有る。
・普通に美人と思っている女性が和服姿、髪形になると途端にダメになるというのがよくあるが(バブルへgoの広末はその典型)この映画のなかで木村佳乃菅野美穂も和服をきてダメになるタイプ、それに引替え土屋アンナは和服と和の髪形が非常によく似合っている。実に奇麗だ。だからちょっとしたところで良い表情の演技も出来ているのかもしれない。だが、相変わらずで大声上げて怒鳴り立てる演技となると、またいつもと変わらぬヤンキーそのもの。どの映画にでてもおんなじ声とおんなじ叫び方。いい加減監督は土屋アンナに下手くそワンパターンな声でしか怒りを表現させない、怒鳴る演技をさせないほうがいいんじゃないか。怒鳴らせれば土屋本来の個性だなんて思っているのかもしれないが、こればっかりは興ざめしてしまう。上手く演技させればもう少しマシになるのに。

●まあということで注目度も高く、女性中心に作られ、とても奇特な映画で、期待度も大きかったのだが、映画としては大して面白いものではなかった。映像としてもそこそこ、まあまあである。もっと下らない映画は山のようにあるから最初の監督作品でこれだけのものを作ったことは大いに評価に値するが、期待していただけに、肩透かしをくらった感がある。現在の日本のキワモノ女性が総結集して作ったキワモノ映画かもしれない。こういう日本文化みたいなものを前面に出した映画は。海外では受けるだろう。たけしの「座頭市」なんて海外映画祭、評論家受けをねらってあの江戸時代の民衆がタップダンスを踊るシーンをいれてるんじゃないの?と思う。賞狙いの卑しいスケベ根性だろう。この映画はそこまでのものは感じないが・・・・まあ海外でどう評価され、日本でどう評価されようとも・・・・・キワモノ好き、業界連中の内輪受けという感じがしてしまうのである。