『落下の王国』

●手元にあるパンフに書かれた文字を読むと・・・・
「万華鏡を覗くような《映像美》と魂に響く《物語》の力、誰も見たことのない極彩色のグランド・オペラ」
「構想26年、撮影期間4年」
石岡瑛子の華麗な衣装と、世界遺産の壮大なロケーションの奇跡的コラボレーション」
などと云々・・・。
PRパンフだから美辞麗句が並ぶことは致し方なしだが。

●あちこちの評論、批評でも美辞麗句が並んでいる。しかしこの映画、実につまらない一作だった。

●兎にも角にも話がまったく詰まらない。病院の中のベッドで少女に語りかける寓話という設定にもよるが、ストーリーに躍動感もなければワクワク感もない。語られる寓話自体が実に詰まらない。もうなんらストーリーに期待もときめきも抱けず、退屈な話を延々2時間も聞かされている感じであった。睡魔が波のように襲ってきた。

●映画なのだからストーリーに面白さがなければどうにもならない。この映画はそのストーリーの部分があまりにおろそかだ。

●映画は映像の織りなすストーリー。映像+ストーリーで映画として成立する。この映画はストーリーが陳腐で映画としての面白さがない。評価の多くが映像美の事を取り上げている。そればかりの評価も目につく。まるで映像を評価することがこの映画を褒めるパターンかのごとくだ。総体としての”映画”を見ていない、評価していない!木を見て森を見ず。

●シークエンスの映像美だけを見せるのならば映画である必然性は無い。写真集でもスライドショーでもいい。この映画を評価している人は映像のパーツが美しいと言っている。パーツの一つ一つが個別に美しかったと言っている”映画”の事を語っていない。

●衣装の美しさ(風変わりさともいえる)、景色の美しさをフィルムに納めていても、それらは個の美しさである。いくら美しいシーンを集めても、それが連続した流れを紡いだ映画のクオリティーに昇華していない。

●パンフに載っている写真を見ると、一つ一つが確かに美しい。美術的センスのある美しい”写真”だ。だが、それが動く映像となると、途端に精彩をうしなう。サラサラとした映像でしかなくなる。静止した写真が持つ力強さ、アピールが薄らぐ。それが写真と映画の違いだ。

●静止した写真と、動く映像は全く異なるのだ。ワンカット、ワンカットを切り取ればは美しい。だが、それが流れる映像になると何故か心に響いてこなくなる。映像として捉えていないからだ。

●似たようなことがあった。蜷川実花が初監督をした「さくらん」だ。あの映画も「極彩色ワンダーランド」などと言っていた。「落下の王国」PRにも類似する言葉だ。蜷川実花も写真では非常に才気あふれる素晴らしいものを撮っている、原色を使った目に訴えかけてくる絵を作りだしている。しかしそれが動く映像「さくらん」という映画になった途端、絵が陳腐化した詰まらないものになった。この「落下の王国」と酷似している。

世界遺産をあちこち巡り、壮大なロケーションで撮影が行われたということだが、なぜかどの絵もさして響いてこない。こんな場所もあるのだなと思いはするのだが、スクリーンに写るその絵はソコソコの美しさでしかない。ハット息を飲むような驚くべき美しさはない。映像の美しさなら「NHK特集」や「ディープブルー」の方がよっぽど素晴らしい絵を見せてくれる。

●ターセム監督の前作「ザ・セル」も空間や頭の中の映像、特異な造型や衣装が話題となった。だがそれもやはりパーツだ。ある登場人物、風景、空間を極めて異色なイメージにしたり、を奇妙なものにすることで人の目を引くものとした作品だった。子供を出汁に使ったようなストーリーはあんぐり口をあけるほど酷かった。この「落下の王国」にしてもジャンルはまるで別の映画だが、絵の作り方は同じである。

●パッと見た風景、思いつきの映像、それを連ねているのがターセムの映画手法ではないか? つまり、この映像、映画は”浅い”のだ。美しい景色や映像も表面的なのだ。表の皮だけを写しているようでその奥潜むもっともっと深みにあるもの、そこまでを手を伸ばしていない、辿り着こうとしていない・・・だから、美しさが感動を持って伝わってこない、胸に響かない。深堀されていない思いつきの映像、それは感動をもって心に伝わってこない。

●巷の高い評価とは事なり、自分はこの映画、非常に浅薄な上っ面だけの映画としか感じられないのである。


石岡瑛子『プロフェッショナル仕事の流儀』http://d.hatena.ne.jp/LACROIX/20110218