『ロボジー』

・まあ面白いんだけど、なにか今までの矢口作品と違う。

・なんだろう?とそれを考えてみると、これまでの矢口作品にあった明るさがこの「ロボジー」には少ないのだ。

・ただ楽しく面白く作れば明るくなるというものでもない。今までの矢口作品にはあんまりジトジトとした悩みだとか苦しみだとか、そういうものが面に浮かんでいなかった。悩んだり苦しんだりしていても、カラッとしていてスキっとしていて気持ちのいい登場人物がほとんどだった。それがこの「ロボジー」は・・・ちょっと暗いのだ。ジトッと湿っているというかカビが生えているかのようなのだ。

・話しの内容が”老人”であったり”売れない機械製作”であったり、そういうものを描いているからであろうが、今までの矢口作品であればそういった題材もカラッっと揚げてカリカリ、サクサク、すっきり爽やか晴れ渡る空!のような話に、登場人物に、映画に仕上げていた。それがこの「ロボジー」では見受けられない。

ミッキーカーチス改め五十嵐信次郎さんの老人が飄々としてはいるけど、やっぱりなにか淋しさとか辛さとかが見え隠れしえいて、映画を今の日本社会の老人とかの状態に引き寄せてしまっている。

・木村電器の窓際社員たちも・・・暗いんだなぁ。これもなんだかんだいって今の日本の社会状況のあらわれか?

吉高由里子オタッキーな雰囲気プンプンに発散させて、これまたカラッとした明るさではなくジトッとした粘着系の湿り気を感じる。

・話しもどうもスカッとしない。悶々としている。

・考えてみると、矢口史靖が今までの矢口流で話を創作していったのだけど、今この2000年台の閉塞して暗く淀んだ日本という国の社会状況がどうしょうもない政治家とそれがおこなう失政、貧困、格差、そういったもろもろの暗い影が、この矢口史靖の話に、脚本に、映画に知らず知らずのうちに影を落としまとわりついてしまっているのではないだろうか? だらか本来カラッと明るく爽やかであった矢口作品がこんな重く、暗い影のある作品になってしまったんじゃないだろうか? 

・明るく爽やかな矢口作品にまでも暗い影響を及ぼしてしまうほど、今の日本はほんとうにどうしょうもない澱んだ空気のなかにあるということなんだろう・・・と、ちょっと飛躍しすぎかもしれないけど、この映画を見たらそんなふうに感じた。

・公開前のTV特番で矢口監督が吉高由里子のことを「やりすぎですねぇ、そこまでやるかってくらいやります。もう変態ですねぇ」と言っていたが、いや正に、この映画を見ていると吉高って変態的な部分、オタクでちょっと異常、ヘンテコ女に見える。まあ、あれこれ芸能情報とかでも奇行、奇妙発言が目立っているが、吉高由里子ってやっぱちょっとオカシイ。でもまあそこが魅力にもなっているのだろう。実際はちょっとヤバい女なのかも?(*_*;