『名もなく貧しく美しく』(1961)

木下恵介の弟子である松山善三が監督。

●主役の男女二人を言葉を話せない聾唖者とし、手話によって意志を疎通させるというのはなかなかの大胆な設定。思い切った挑戦であろう。通常なら怖くてわざわざこんな困難な設定は回避してしまうものだ。

●セリフを話せない分、役者は目や表情、仕草で感情を表現しなければならない。真の演技力が要求される。敢えてその難しさに挑戦し、それを乗り越えた監督、高峰秀子小林桂樹の力には感銘。

終戦当時の様子が実に如実に画面に映し出されている。最近の映画よりもこの頃の映画の方が当時の様子に現実味がある。空襲を受けて人々が逃げる様子などは今の映画でも敵わぬほどの迫力、緊迫感。

●『浮雲』に比べてカメラもフレームも演出もこちらの方が映画的。
浮雲』と同じく敗戦直後の厳しい状況を描いているのだからもっと共感をえられてもよかったのではと思うが、ラストのあまりにあざとい、そしていやらしい演出がすべてのあだになったのではないだろうか? どうして最後の最後であんな終わらせ方をさせるのか、これではあまりに秋子が可愛そうだ。いや秋子だけでなく秋子母も夫も子供も、皆がこれでは可愛そうすぎる。最後にどんでん返しというか、強烈な山をもってきて観客を驚かせようという意図でやったのかもしれないが、これはあざと過ぎる、やり過ぎであり、全く納得できないし、こういう終わらせ方は嫌悪感すら抱いてしまう。それは当時の観客も同じだったのではないだろうか。

●登場人物の心、愛、思いやりは美しく描かれているけれど、このラストのおかげで映画が美しくなくなってしまった。

●焼け跡で秋子が拾った子供が突然秋子の家を見つけて訪ねて来るというのも、前に話の流れがないので変。どうしょうもない弟の話にもなんらケリは付けられていない。弟は秋子の不運と貧しさの演出道具でしかない。

●片山秋子(高峰秀子) 片山道夫(小林桂樹) 二人の夫婦と
祖母の心は美しく清らかだが、夫婦が手話でお互いの気持ちを語るシーンなどは清々しさもある。しかし、その他があまりに醜い。貧しさや不幸、不運を演出するために組み込まれた夫婦の周りの話がわざとらしく、あざとらしく、却って逆効果にさえ映る。

●二人の夫婦の美しい心を描きながらも、作品としては美しいストーリーにはなっていない。嫌な作品になってしまっている。

高峰秀子はとても美しい、演技も流石の素晴らしさ。それに引けをとらず小林桂樹の演技も素晴らしい。

●レストアされた画面は奇麗。ノイズも殆ど気にならない。たまにブレとかはある。