『サッドヴァケイション』(2007)

●ラストシーンの無い映画が映画として有りえないように、ファーストシーンもミドルもなく、途中から始まる映画というのも有りえない。それは映画ではない。

●ぶつぶつと全く聞き取りにくいセリフ。オーディオ・ボリュームをかなり高く上げても何を言っているのか聞き取れない。これはつまり役者が喋っていることが、映画の台詞になっていないのだ。ただぶつぶつ呟いているものを映像と一緒に流しているだけ。ならば台詞など要らぬ! 

●この『サッドバケイション』は不可解(難解と言うのとは違う)極まりない映画だ。この作品は映画として成立していない。『Helples』の延長線であり『EUREKA』からも繋がる3部作だということだが、『Helples』を観て知っていなければ何がなんだか訳もわからぬような作品ならば、この映画は作品として成立していないということだ。

●冒頭、中間をばっさり端折られて切り捨てられ、最後の部分だけを見せられてストーリーに納得する人間が居るはずがない。それは余りに当然のことだ。『サッドバケイション』だけを観て、素晴らしい、イイ映画だなどと言う人がいたら、そんな人は映画もストーリーも何も観ていないと自ら言っているようなものだ。

●『Helples』『EUREKA』『サッドバケイション』と続けて観なければ、理解できぬような映画ならば、それは映画でもなんでもない、ただの犬の尻尾でしかないのだ。
『EUREKA』は単体で映画として成立していた、しかし『サッドバケイション』はその作りのひどさからも、ちぎれた犬の尻尾のような立ち位置からも、映画と呼べるような代物ではないのだ。

●海外で評価が高いとされている監督の映画に現時点で素直に受け入れられる監督は居ない。北野たけし、青山真治黒沢清塚本晋也、石井あれこれと、どれもこれも日本での評価は非常に低迷している。
この辺りのことを書きだすときりがなくなるが、何故に日本で評価が低いのかということを端的に言うならば・・・・

「だって、変なんだもん。だって、詰まんないんだもん。わけがわかんないんだもん」

という3つの言葉で全て言い表せる。

その「変で、詰まらなくて、わけがわからない」映画を日本の評論家、批評家、一部の映画ファンは素晴らしいと評している。

●偉そうに映画論だ、演出論だ、感性だなどと言う以前の問題として、作品がヘンチクリンで詰まらないのだ。そして極めて自己中心的に撮影され、全くもって理解しにくいのだ。

●海外で評価されようが名匠と言われようが、なんだろうが詰まらないものは詰まらないと言えばいい。

●日本には、海外で評価されたりすると「自分の感覚は世界的なものと違うのかな?」などと余計な心配をし、ストレートな自分の評価を曲げ隠す傾向がある。それは日本人の心情に未だに戦後から続く舶来主義が根深く染み込んでいる証明でもあろう。

●舶来主義のひねくれた精神が、海外映画祭で箔を付けて日本に持ち帰れば日本人の批評や感想に"海外”という威光を覆いかぶせてマイナス意見を封じ込めるという策に使われた。前述の海外で評価の高い監督らはその策を使って”海外評が高い”という箔を付けた監督と言ってもいいだろう。

●もういい加減、海外で評価が高いなんて言い方は止めていいのだ。映画雑誌も、批評家も、ライターも"海外で評価が高い”なんてフレーズを使うのを止めるべきだ。海外だろうが日本だろうがそんなことは関係ない、自分はどう思うか、その作品は映画としてどう感じるのか、それを余計な雑音に耳を傾けず、自分の感性で語るべきだ。もっとストレートに作品を観て語るべきなのだ。誰かがこう言っているからとか、どこでの評価が高いからだとか言うのではなく、自分はこう思うと素直に言うべきだ。それが未だに日本の映画を取り巻く状況には無い。