『THE BIG BLUE』アメリカ公開版(118分)

● 日本で公開された「グレート・ブルー」(120分)はオリジナル・バージョン「Le Grand Bleu」の国際版「Big Blue」と内容、編集、音楽は同一のバージョンだった。

アメリカで公開された「Big Blue」は国際版にさらに手を加え、エリック・セラの音楽がビル・コンティに置き換えられ、尺は118分と2分短くなっているが大きな再編集は行われていない。ただし、ラストシーンが「Le Gland Bleu」や「Big Blue」とは全く異なるものになっているということだった。

● 「グレート・ブルー」に心酔した自分は、是非ともアメリカ公開版「Big Blue」も観てみたいと思っていた。

エリック・セラの音楽はこの映画にベストマッチしていて、全く文句のない素晴らしさだったが、アメリカ版は映画音楽の大御所ビル・コンティーだ。「ライト・スタッフ」の音楽も素晴らしかったしひょっとしたらエリック・セラとは全く違った素晴らしさで新しい感動を自分に与えてくれるかも知れないという期待もあった。

● それと、全く異なるラストシーンがいったいどんなものか確かめてみたかった。

● だが、アメリカ版「Big Blue」は日本で流通しているわけでもなく、88年当時は今のようにネット環境がしっかりしていて取り寄せようと思えば世界中の商品を取り寄せられるという状況でもなかったし。

● あれは確か1998年だったと思う。「グラン・ブルー」公開10周年記念で日本でもロング・バージョンが公開されることとなり、久しぶりに「グラン・ブルー」の話題で盛り上がっている時だった。自分が「アメリカ版って観てみたいね」と話したところ、側にいた知人が「あ、それ、あるよ!」とびっくりすることを言った。「ウソ!ホントにあるの、だったらぜひみせて欲しい、貸してくれ」とお願いしたら「VHSの白パケで画質もあんまり良くないよ」という返事だったが、「全然構わない、絶対に見せてくれ」とお願いした。そして翌日遂に自分の手元にアメリカ版「The Big Blue」が届くこととなる。

● 初めて「グレート・ブルー」を観てから10年、ようやくというか遂にというか幻のアメリカ版を観ることが出来る。心は踊った。自宅に帰り、わくわくしてVHSテープをデッキに入れて、TVを見つめた。ビル・コンティーの音楽はどんなふうになってるだろう、耳を傾けた。

● そして、思わずひっくり返りそうになるくらい、驚いた……。

● 音楽が酷い改悪となっている。エリック・セラのスコアをちょっと手を加えてアレンジし直したという感じだ、エリック・セラの音楽をベースにして、アレンジを若干変え、そこに不必要とも思われるドラムやシンバル、笛などの音が重ねられている。まるで盗作作品かとも思える。こんなことをする必要があるのだろうか? 静かな音楽の部分はまだ耐えられるが、テンポが上がる部分や、コメディータッチの部分の曲は合っていないというよりこれではノイズだ。ジャンジャン、ガラガラとうるさく鳴り響く。これが映画音楽の巨匠ともなったビル・コンティーの仕事なのか、こんな恥知らずな改悪が……。

● 唖然とした、もう最初の数十分で観る気が失せてきた。一体なんなんだろう、この劣悪な改変は。

● 1988年当時としてはリュック・ベッソンもそれほど知名度が高くなかったこともあるのだろう。せっかく作った「グラン・ブルー」を世界各国で上映させるためには、監督として作品に対する意地を貫き通すこともできず、配給契約はかなりルーズなものとなり、オリジナル版をあれこれ弄くられることも許容せねばならなかったのだろう。監督は歯を食いしばり悔しさに耐えていたのではないだろうか? それにしてもこのアメリカ版「ビッグ・ブルー」の音楽は酷すぎる。

● 余りの音楽の酷さに堪え難くなり、テープを早送りにした。アメリカ版は本編の内容に関しては国際版と殆ど同じで再編集は加えられていないということだったので、もう何度も観て映画の内容は暗記できるほど頭に焼き付いているし、こんな酷い音楽と合わせて美しい本編を観て「グレート・ブルー」のイメージを自分の中で悪化させたくないとも思った。

● もういい、こんな酷く改悪された「Big Blue」を2時間掛けて観る価値などない。後は内容をすっかり別のものに変えられたというラストシーンだけを確認すればそれでいいだろう。自分はテープの早送りを続け、カウンターが170分を表示したところで通常再生に戻した。

● 相変わらずの酷い音楽は鳴り渡っていたけれど、あと20分だけはこれに耐え、ラストがどうなっているのかを確認しよう。テレビを正視して画面を見つめた。

● 「グラン・ブルー」の中でも名シーン、ジョアンナがGo and see my loveと言い、ジャックを深海へと導くアンカーのロックを外す。ジャックが青い海へ吸い込まれていく。そして深海でジャックはイルカと出会い、イルカに導かれるように深い海へと泳ぎ去っていく。

● オリジナル版ではこの後、エリック・セラの歌が流れ、リュック・ベッソンの「娘ジュリエットに捧ぐ」というテロップが流れエンドとなるのだが・・・・アメリカ版「Big Blue」では、なんと、深海の海にイルカとともに吸い込まれていったジャックが、バーンと海上に浮上し、クロールで海の彼方に泳ぎ去っていくではないか。バシャバシャと……。

● 酷い、余りに酷い、これでは作品の改悪というレベルを越え、破壊に近い。

● ちょっとは期待して観たアメリカン版「Big Blue」だったが、その期待は裏切られるという域を越えてもう侮蔑に近いものに変わった。酷いものだ、何でここまで酷い改悪をしてしまうのだろう。監督に対する製作者に対する敬意もへったくれも無いという感じだ。

注)YouTubuで探せば、アメリカ版「BigBlue」のラストシーンを観ることができる。便利になったものだ。コメント欄には散々なことが書いてあって、みんなこの改変を非難しているようだ。

● 多分、アメリカ側の配給会社やプロデューサーはオリジナルバージョンのラストが非常に分かり難いエモーショナルな展開になっていたことに難色をしめし「これでは観客が作品を理解できないだろう」とでも考えたのだろう。そして、オリジナルでジャックが深海にイルカと共に泳ぎ去っていく=自殺というラストを「こんな救いのないエンディングでは観客は感動しない、受けない、ラストは希望のあるハッピーエンドにしなくて」とでも考えて、あのとんでもない映像を最後に付け加え変更したのであろう。

● 1988年、今から22年も前のアメリカ映画界は今ほど金儲け主義にべったり染まっていたわけではなく、業界の衰退というものもまだ見えなかった時代だ。それなのに、こんなとんでもない作品の改悪を行っている。このアメリカ版「Big Blue」を観たとき「結局ハリウッドで映画ビジネスを取り仕切っている連中は、映画のことなんか愛しているわけでもなく、製作者、監督、作品を尊重しているわけでもなく、映画も商品の一部としか考えていない連中なんだろうな」と思った。そんな傾向はもっとずっと前からあったんだろうけれど、1998年当時この「Big Blue」を観てハリウッドという憧れは失望となって自分の中に根づいたのかもしれない。2010年の今じゃ「そんなこと当たり前だよ、あの連中は」とケッと笑って流せるようになっているけれど。

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