『カナリア』(2004)

塩田明彦監督

●どうして家族、子供までもを道連れにして新興宗教に入信しなければならなかったのか。なぜ新興宗教に救いを求めたのか。なぜそんなことはまやかしだって思わなかったのか。いや、まやかしでもいいから、寄りかかる場所が欲しかったということなのだろうか? 誤魔化しでも嘘でもいいから、そうとわかっていても、自分を受け入れてくれて、自分を包んでくれて、集団に所属するということ、自分の周りにたくさんの人がいて、その人たちに囲まれていること、その安心を求めたかったのだろうか? 新興宗教に入ってしまう人は、そんな人なのだろうか? その弱さを利用するのが新興宗教ということなのだろうか? 

●子供たちまでも引き連れて教団に入り、出家にあたっては「自分の意思で入った、自分の全財産は教団に寄付する、自分が死んだ場合は教団に埋葬してもらう」そんな誓約書まで出して・・・・・。

●光一と由希が逃走するロードムービーの部分は宗教云々を別にしても面白い。

●話が重さを増してくるのは、カルト教団ニルバーナを離れ、助け合いながら共同生活をしているかっての教団員に光一と由希が拾われるところからだ。

●共同生活の家のなかに一人の老婆がいる。目も見えない。「娘が全財産を取り上げ教団に寄付してしまったんだ。だから一緒に暮らしている」という。親と子、母親と娘の間を引き裂き、実の娘に全財産を奪われ、ひょっとしたら幸せに生きられたかもしれない母親は、失意の中で視力を失い、老い、そしてその不幸を招いた元教団員とともに暮らしている。その顔には柔らかさと穏やかさが漂っている。由希に鶴を折ってやる姿。その老母の明るい笑顔、その穏やかな佇まいには、何もかもを奪われ失い、すべてに絶望し、諦め、その果てにやってきたもうなにもいらない、もうなにも望まない、そんな果てしない諦めの末に辿り着いた深い悲しみが漂っている。深い悲しみの裏返しにある柔らかな笑顔。

●ニュースで母親が教団幹部とともに自殺したことを知る光一。由希が一人で祖父母の家に道子をつれもどしにいく、そこには目も見えず、言葉を理解することもできず、寝たきりの祖母が横たわっている。自分の娘と孫がカルト教団に入団し苦しみの果てに病に倒れ、意識を失い寝たきりになってしまった母親の姿がある。どんな苦悩の中で母親は生きたのか。娘が自殺したことも母親は知り得ない。

●教団によって何気ない幸せ、ただ普通に暮らしていければそれでいいと思っていた母親、父親と子供の暮らしはズタズタに切り刻まれ、そしてもうとりもどせなくなった。二人の老いた母親の姿にカルト教団が行った行為がいかに憎悪すべきものであるかが映し出されている。
ラストで祖父が語る言葉が重く響く「娘は間違えてしまった、娘を間違えて育ててしまった、だから道子は絶対に間違った道にすすませない」カルト教団に入ったことで娘も孫もおかしくされてしまった、だから一番小さな孫娘だけは守りたい。父親としての無念、慟哭するような苦しみに胸が苦しくなる。

●なぜかこの映画を観ていたら、子供たちの苦しみよりも、家族の絆、幸せをズタズタに切り刻まれた親の無念さ、悲しさに、胸をうたれた。

カナリア・・・美しい鳴き声を持っているのに、苦しくて鳴けない子供たち? カルト教団は子供も、親も家族も全てを救いようのない苦しみの中に引きずり込んだ。

地下鉄サリン事件の起きた1995年、あの日246青山通りを走り永田町を通りかかった時、地下鉄の入り口にたくさんの救急車が並んでいたことを思い出す。もう15年も経過した。