『醉いどれ天使』(1948)

●昭和23年、1948年の作品。これも相当に古い。今から60年も前の作品か。以前は時代劇とか、こういった古い邦画を見ようなんて気持ちは殆んどなかったのだけれど、やはり歳とともに嗜好が変化してきたということか?

黒澤明作品の映画音楽を長く担当した早坂文雄、数々の黒澤関連の本では有名な「郭公ワルツ」のシーンを見てみようと思った。重苦しきシーンに能天気な音楽を使うことでよりその暗鬱感を強調させたという”対位法”がどんなものか見てみようと思った。なるほど、人生に希望を失い自暴自棄になりかけている主人公と郭公ワルツの組み合わせは確かに寂寥感を増幅させている。

●しかし、数々の書物で取り上げられているこの郭公ワルツの音楽の使い方だが、この手法を使っている他の映画作品はあるのだろうか? あまりに知れ渡った方法のため、他の映画では使いずらくなり、使われることが無かったのだろうか?

●光と影にこだわったライティングをしたということがDVDの特典映像で語られていた。確かに顔面に映る木陰の揺らめき、夏の暑さを感じさせるようなくっきりとした影など、見ていてわざとらしいくらいに影の演出が分かる。羅生門でもおこなわれていたが、この影で場面の状況を見るものに感じさせるという手法も面白い。ここでまた思うが、最近の邦画で光の当て方や影の映り方などで、それが意図的だとわかったとしても、なかなか凄いな、工夫してやっているな。などと思わせるものがまるでない。画面の芸術性を追求しているような作品が殆どない。コスト削減と収益のことばかりが先に立つ映画製作の現場では、黒澤明の時代のように潤沢なライティング、時間をもって撮影をするなどということが出来ないからでもあろう。

●こうして古い作品を観ても、黒澤作品の絵、シーンへのこだわり。その芸術性の高さはよく分かる。こういう映画を撮る事が出来たのは邦画黄金期、黒澤明が居たころ、そしてその少し前までなのかもしれない。

●作品自体は、正直つまらなさを感じた。特に前半は通しで観るのが辛いほどだるさを感じ、ストーリーにも面白みをまるで感じなかった。なにせ今から半世紀以上前の作品。今の感覚からしてもこのストーリーはあまりに古びている。そえは仕方ないことだが。黒澤作品はエンターテイメントの方がいいと前にも書いた。七人の侍にしろ、隠し砦の三悪人にしろ、痛快無比な娯楽作品は今でも充分に映画の楽しさを味わえる。だがこの作品のような社会性をもたせた映画は、詰まらないと感じるものが多い。黒澤作品はポツポツと見てはいるが、未だ全作品を鑑賞してはいないのだけれど。 

●この映画、セリフの聞き取りにくさは甚だしい。役者が何を言っているのか全然わからないようなシーンも多々ある。字幕が必要なほどだ。デジタル利マスターされた音声であっても、ここまでセリフが聞き取りにくいとどうにもならない。この映画が公開された当時は今よりももっと音声技術は悪かったはずなのだが、劇場の観客はこの聞き取り憎いセリフをちゃんと理解できていたのだろうか?

黒澤明は現場の臨場感を逃さぬため、セリフも同時録音にこだわったということだし、録音を担当した小沼氏の抜きん出た技術があったからこそ、ここまでの録音ができたという話もあるが、いかんせんこのセリフの分かりにくさには驚く。よくこんなセリフで映画を鑑賞できたものだなと不思議にすら思う。あまりの聞き取りにくさにボリュームを上げたがそれでもだめで、結局邦画であるのに日本語字幕を表示させて鑑賞した。日本語であるから字幕は一瞬見ただけで事がが頭の中に入ってくる。するとセリフもなんだか良く聞こえるように感じる、不思議なものだ。

黒澤明は徹底的にリアリズムにこだわった、セットの汚しや馬の足が土を蹴り上げる埃、役者が役になりきれるよう、リハーサルから場面の状況まですべて造り込んだという。そういうこだわりはありとあらゆる黒澤関係の書物で取り上げられている。だが、この映画で志村喬演じる町医者が食事をする場面、蚊が五月蝿く飛び回る夏だというのに志村の口からは真っ白い息が出ている。他の役者には白い息は見られないが、熱を込めて演じる志村が意識せず深く吸い込んだ息を吐き出したとき、その息は真っ白くなっていた。

●画面の隅々まで意識を張り巡らせるという黒澤作品でこれは何なのだろう?初めてこの作品を見て直ぐに気が付いたのだが、これは黒澤作品としては大ミスではないだろうか?

●多くの黒沢作品に携わった堀川弘通氏の著作である「評伝 黒澤明」ではこんな記述がある

映画の季節感を強調するために夏のシーンを厳寒の時に撮影している「夏の場面を夏に撮影すると、夏の暑さを強調するのをつい忘れがちである。冬に夏の場面を撮影すると、如何に暑いかを強調するために、色々工夫するから逆に暑さが出るのだ」

この黒澤流のやり方には果たしてそうだろうか?と疑問も抱くが、いずれにせよこの「酔いどれ天使」は真冬に真夏のシーンを撮影した。ワザとらしいばかりに首筋をタオルで拭ったり、首に付いた蚊をいらだたしく叩いたり、蚊取り線香をもってきてくれと言ったり、夏であることを強調しようとする演出は余りに過剰である。だが確かにこれが真冬という感じは受けない。そこが黒澤明と黒澤組の技だったのであろうが、なんと志村喬の吐き出す息の白さをそのままフィルムに残し、作品に残してしまうとは・・・・・。今ならば気温の低いときの撮影では普通に氷を役者の口に含ませるということをしているのだが。

黒澤明の映画術、作劇術、映像の素晴らしさ、その映画のこだわり、芸術性、そういったものを讃え、賞賛した書物は非常に多い。だが、今まで何冊もの黒澤関係の書物を読んできたが、この「醉いどれ天使」における志村喬の吐く白い息に言及した書物はない。黒澤研究家や黒澤組みの美術スタッフなどの書いた本にもこの白い息のことを書いたものは見たことがない。(黒澤関係の書物を全部読んでいるわけではないのだが)

●ネット上ではこの白い息のことを指摘しているブログなどがいくつかあるが、黒澤明研究書、評論、黒澤明の美術、技術などを賞賛したあまたの本で、この白い息のことがまったく取り上げられていないのはなぜだろう。微にいり細に渡り黒澤作品は研究され尽くしているというのに。

●黒澤関連の本は殆どが黒澤礼賛の本である。黒澤明を信奉し、黒澤明の下で働き、怒鳴られながらもたくさんの良い思い出を作ってきた人達が書いている。まったく関わりの無かった人でもやはり黒澤明の作品を愛する人が本を書いている。そんな人たちは、こぞってこの志村喬の”白い息”のシーンを黙殺している。黒澤研究書であれば、これだけ目立つ作品上のミスも一つの事件として取り上げてしかるべきであろう。

黒澤明だが、良いところばかりを皆が同じように賞賛し、褒めちぎり、太鼓を担いで黒澤は素晴らしいと言うのはおかしい。そういった教条主義的なこと、事大主義的なこと、まずいことには目を瞑り、臭いものには蓋をする、それは黒澤明自信が最も嫌ったことなのではないだろうか? 

●この映画を観て、黒澤明とそれを賞賛する書の著者、多くの黒澤研究者が、まるで軍隊に統制されたかのように、ある事柄を皆で黙殺している感じがし、少なからぬ嫌悪感を覚えた。

●最後まで説教臭さが鼻に付くストーリーは、正直面白くはなかった。所々で目を引く映画技術、映画美術、カメラワーク、ライティングなどの取り上げるべき部分はあるが、こと一本の映画、作品としては、もう余りにも古すぎる。辛気臭い面白さの抜けたと感じた。