●もう19年も前の話だが、この映画は劇場公開時に結構話題になっていた、評判が良かった。自分も劇場で観た。どこの劇場で観たかの記憶が無い。吉祥寺だったか? 有楽町だったか? 渋谷や新宿ではなかったと思うのだが・・・どこか小さい劇場で観たという記憶が残っている。
●しかし、映画の内容がほとんど記憶に残っていない。20年近く前のこととは言え、いい映画ならどこかしら覚えているものなのだけれど。唯一覚えているのは『桜の園』の上演前に火災報知器を鳴らすというシーンだけであった。なぜかそのシーンだけが映画のタイトルと結びついている。これだけ記憶にないということは20年近く前にこの映画を見たときの自分は、この映画を面白いとも素晴らしいともなんとも思えなかったのだな。この映画の良さ、余韻、美しさ、素晴らしさをあの頃は何も分からなかったのだな。今とは違って映画のことも全然分からなかったし、こういった文学的な映画を理解する頭もなかったということなのだろう。19年の歳月を経て、改めてこの作品を観て、これは本当に素晴らしい出来だなと感心すると共に、19年前にはこの素晴らしさを断片すら理解できなかった、まったく分からなかった自分というものが情けなくもなる気分である。
●ビスタサイズに切り取られた画面の中で何人もの女子高生が動いている。その動きが見事に設計されている。きっと監督は平面図でも描きながら「あなたはここからここへこう移動してください。あなたとあなたはここで話をしていてください。あなたはこっちからこっちへ走ってください」と全員の動きをきっちりと、画面の中で最も効果的な絵になるように綿密にそして緻密に動きを組み立てていたのだろ。ワンシーン、ワンカットで無意味な動きがまるで見当たらない。意味のないぼんやりと立っているような役者がひとりとして見当たらない。登場人物全員がきちんと仕組まれ、プログラムされている。唸ってしまった。吐息をついてしまった。これは本当に凄いなとワンカット毎に映像を元にもどし、もう再び同じシーンを見直すということを何度もやってしまった。これは驚きの作りだ。
●登場する女子高生が実に自然だ。演技臭さが感じられず、ありのままそのままの女子高生の言葉と動きを感じる。演技力などという部分にまで達していない若い女子高生達の言葉、目つき、仕草が本当に自然だ。監督は台詞や演技を女子高生にさせたのではなく、女子高生のありのままにあわせて、脚本台詞、演技を調整し、ありのままが演技になるようにこの映画を撮っていったのではないだろうか? 真逆なアプローチ、だがそれがこれだけみずみずしく、うそ臭さの無い、自然な女子高生の姿を映画にすることが出来た要因かもしれない。
●カメラの動き、構図といったところも、あざとらしさがなく本当に自然だ。この映画全体が、役者が、演技が、台詞が、カメラの動きが、画面の構図が、全てが極めて自然であり、見ていて苛立たしさを感じたり、ずるさを感じるような部分がまるでないのだ。
●ここまで構成の見事さを見せてくれる映画もなかなかない。今しにしてそれに気が付いたことを後悔するばかりだが、良い映画の作り方のお手本としてこの映画は今後事あるごとに、何度も見直すことになりそうである。
●創立記念日に上演する「桜の園」その上演二時間前の女子高生たちの姿を描くことにより、もっともっと大きな、女子高生の若さ、葛藤、心の動きまでをも表現してしまうとは・・・大は小を兼ねるではなく、小が大を全て表現してしまうという実に見事な映画表現の形である。
●この映画に出演していた女優がその後あまり目立った活躍をしていないことが少し残念でもある。中島ひろ子、つみきみほ(彼女のボーイッシュな役はこれまた実に上手い、見事)宮澤美保(女子高生の中では美形であり、部室で隠れて彼と会うなどHな面もある面白い役だ)白鳥靖代。
●中原俊監督は2008年に『桜の園-さくらのその-』として自分の作品を再び今の役者を使って撮ったが、これは未見。あまりに評判がよくなかったということと、前述のように1990年の『桜の園』の印象が自分の中で薄かったため観ようという気持ちにならなかった。一度2008年版で中原監督がどんな演出、どんな作り方をしているのかみてもいいかもしれない。
●直接的に物事を表現するのではなく、淡く、ぼんやりと匂うがごとく漂わせ、それが最後にはジンとこころに染みてくる。余韻が長く残る。こういった映画の作り方は難しいけれど凄い。
●この映画が吉田秋生の漫画を映画かしたものだということも改めて今回知った。吉田秋生作品の映画化では「ラヴァーズ・キス」が割りと好きであるが、両方とも微妙な心理描写という点で似ているかも?片方は男と男、片方は女と女の恋だが。
●19年ぶりに再鑑賞し、19年前の自分の映画というものに対する無知さを思い知り、2009年になって初めて素晴らしさを知った一作。