『東京物語』(1953)

●邦画の歴史の中で名作中の名作となれば”動”の「七人の侍」そしてそれに対する”静”が「東京物語」とは良く言ったものである。確かに的を得ている。

●5,6年前に初めて「東京物語」を観たときは正直なんだか詰まらないなぁと思っていた。朴訥なセリフの喋り方、ただ淡々と真っ正面から人物を撮って、ボツボツと喋る姿の連続に退屈さも感じ、なんでこれが名作と称されるのだろうと疑問に思った。だが、今改めて鑑賞してみると・・・分ってきた気がする。この映画の持つ普遍さ、しみじみとした味わい。この映画で表現しようとしていたこと、伝えようとしていたもの・・・・自分も歳を取ってようやくにしてこの映画の持つ良さが分ってきたのだなと我ながらにしみじみと思ってしまった。たかが5,6年前にはまるで分らなかった自分が幼すぎたのかもしれないが。やはりこういった映画は有る程度年を重ね、社会の機微に揉まれ、それからでなければ分らないのだろう。

原節子香川京子が「世の中って嫌なことばかりね」「そう、世の中って嫌なことばかりよ」と言葉を交わすシーンがあるが、そんな嫌なことを沢山乗り越えて、そうしても生きていかねばならない、それが人生なんだよ、そうして人の人生は終演を迎えていくんだよ・・・小津安二郎がそう言っているようである。

●この映画には噛めば噛むほど味が出るという表現は適さない。観て感じることが出来れば、じわじわと心に染みてくる。無理して噛む必要はない。

●昔の日本の風情をこの映画の中で見ていると、昔は確かに今と比べれば貧しかったのだろうけれど、平和だったんだなぁ、今の日本はなんてガサガサした世の中になっているんだろうなと思えてしまう。原節子のような美しい女性が一人で今で言えば貧乏学生が住むようなアパートに住み、簡単な鍵をカチャっと締めただけで仕事に出かけ、また戻ってきて部屋に入る。今の世の中ではこんな所に住んでいたら途端に犯罪の標的になってしまうだろう。

●昔は玄関に印鑑を置いていたり、こんな奇麗な女性があんな古びたアパートに一人で住んでいたり、それが普通でそれでなんともなかったわけだ。今だったら危険極まりないと言えるのだろう。

●息子、娘夫婦の家にしても本当に今なら田舎の小さい民家である。両親が田舎から出てくるのを泊める部屋を作るため、子供部屋の机を廊下に出したり。お風呂もなくて銭湯なのだろう。この映画を観ていると昔は本当にこんなかんじだったんだぁと驚いてしまう。今の世の中は、確かにこの頃から比べれば遥かに豊かになり、生活、趣味の幅も広がり、何気ない暮らしでも、この頃の人達からすれば驚くべきものになっているであろう。だが、使い古された言い回しだが、心の豊かさ、社会の温かさ、優しさ、そういったものは逆に大きく減衰してしまっている。この映画を観ているとそういった現代の悲劇感すら漂ってきてしまうのであろる。

●そういった社会情勢の現代との違いが顕著なのとは別に、親というものの考え方、歳をとって子供が大きくなって自立してからの親の気持ちの描かれ方は、驚くほどに今に通じる。今も昔も変わりなしということがしみじみ分る。

「昔はもっとあの子は優しかった」「息子より孫のほうが可愛いとはいうが」「自由に育てたが育て方を間違った」だとか・・きっと今も昔も親は子に対してこういうふうに寂しく思っているに違いない。そして子は子で、年老いてしまった親への不遜な態度を取ったり、父親が最初に死んだほうがよかったなどと言ったり、死んだばかりの母親の着物を貰いたいなどと通夜の翌日には言ったり・・・・こういった親と子の思いの違い、思いの変化は人間で有るかぎりどこへ行っても、どんな時代になってもきっと同じなのだろう。この映画には、嫌らしくも、汚らしくも、悲しくもあるが、普遍的な物として存在する人間の悲しさと傲慢さがしっかりと描かれている。

●自分も歳をとり、この映画の中の親夫婦の様になればきっと同じような事を思うのであろう。若かりし頃はわからなかったけれど、やはりそうなんだなとこういった映画の良さ、本当さが分ってくるのであろう。

小津安二郎という監督は、なんでもないような本当に普通のストーリーの中に、人生の落日を迎えつつある親の心の悲しみ、寂しさ、そしてそれを感じられない若い夫婦といった、いつまでもいつまでも繰り返される普遍的な事実を見事に描ききっているのだなぁと、改めて気が付き、しんみりと感じ入ってしまった。

●なるほど、やはりこれは名作なのだなと、今この歳にしてようやく理解が出来た自分である。

原節子の美しさは、正統な日本美人か。白黒の映像の中で、妙に派手ではなく、きちっとした日本の立派な女性という雰囲気を表現している。

●様式美とは良く言ったものだ。本当に形が揺らがぬ美しさというのはあるものなのだな。

●移動撮影が殆ど無い。これは旧スター・ウォーズ三部作にも当てはまる。なぜか日本の映画は兎に角なんでも無いシーンでもカメラを動かして移動撮影をしている。その方が画面に動きが出るし飽きないとは言うものの、さしたる効果も無いというシーンが殆どだ。カメラを完全に固定して、まるで動かさず正面から人物、被写体を真っ直ぐに撮っていても、小津の作品は飽きるどころか絵に惹きつけられる。

●母親役の東山千栄子がだまって夫に従い、あるがままに事を荒立てず、状況を受入れて生きているという母親役を本当に旨く演じている。ものすごくいいなと今回再認識。

トリュフォーなどはこの映画と小津を高く評している代表的な外国人監督だが、ヌーベルバーグ、外国人から観ればこのモノクロの映像 日本人が古いフランス映画を見るのと似たような感じがするのかもしれない。こういったモノクロでの映像表現のほうが、却って観る側に想像力を要求する。昔のモノクロのヨーロッパ映画と並べてみると、確かに近いものを感じる。そう言った部分も小津が世界で評価されている一つの要因なのかもしれない。

●思ったことを書き連ねていたらこの映画も幾らでも書くことが出てきてしまいそうだ。また時間が経ってから観てみよう。もう少し年齢を重ねたとき、また今では見えなかったこと、思わなかったこと、感じなかったことがこの映画から染み込んでくるかもしれない。やはり名作なのだな。

●昔発売されたLD版「東京物語」があったのを思いだし、引っ張り出して見てみた。ジャケットに何枚か配された特徴的なシーンの写真が非常に美しい。もちろん画像処理をしているのだろうが、映像ではみられなかったくっきりと鮮明な写真がLDのジャケットには何枚も使われている。この位クリアなモノクロ映像で「東京物語」全編を見てみたいものだと思った。いや、そうすると昔の柔らかな雰囲気がなくなるのかもしれないけれど。